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人生案内メモ、文字起こし、感想。

ファミリーヒストリー 細野晴臣 タイタニック号と祖父。

細野正文さん

父方の祖父

タイタニック号に乗り九死に一生を得た。一族に重荷がのしかかった。(生き残ったのは)日本人の恥、とまで言われ、家族でその話をすることはしなかった。

明治3年生まれ。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。逓信省鉄道作業局に入局。新橋駅配属。
「日本を開いていくのに、一番魁(さきがけ)になることをしたい」明治43年8月、ロシア留学を命じられ、サンクトペテルブルクへ。

タイタニック

帰国のため、鉄道員の同僚(木下淑夫=ジャパンツーリストビューロー・現JTBの創設に関わる)から完成したばかりのタイタニック号に乗るよう勧められた。4月10日、ニューヨークに処女航海。4月14日午後11時40分、氷山に激突。2時間後沈没。700名の生存者の中に正文さん。

女子供を差し置いて助かった。昔の武士なら生きて帰らず、死んで当然だ。おめおめと助かって帰ってきたから卑怯だ・・・と非難される。

事故から1年後、鉄道員副参事の役職を退くことを余儀なくされる。嘱託として働いたが表舞台からは遠ざかる。長男は騒動に巻き込まれ新潟に転校。46歳で四男を授かる。(日出臣さん=細野晴臣さんの父)定年までは岩倉鉄道学校の講師を務めた。昭和14年、68歳で死去。タイタニック号の体験を最後まで話すことはなかったが、死後手記が見つかる。

大事件の発生せしことを知り、命も本日で終わることを覚悟した。別に慌てず、日本人の恥になるまじきと心がけた。

目の前に下ろされた救命ボートは、既にない。乗客たちは、次に下ろされるボートに向かった。その場に佇んでいると満員のはずの救命ボートから「あと二人乗れる」と声がかかる。その場にいたのは、自分とアルメニア人男性の二人だけ。すぐにアルメニア人が飛び乗った。

最愛の妻子を見ることも出来ざることかと覚悟しつつ、凄愴(せいそう)の思いにふけりし今、男一人飛び込むのを見て

※凄愴(せいそう)・・悲しみいたむこと。非常にいたましいさま。昭和17年、手記「巨船タイタニック号の避難日記」発表。
戦時中だったので注目されず。

中谷孝男さん

母方の祖父

日本を代表するピアノ調律師。ルーツは神職。曽祖父は中谷家に養子として入る。明治36年、陸軍退官後に故郷浜松に戻る。孝男さんも転校。(現・元城小学校)明治20年、学校にあった外国製のオルガンが壊れ、修理を任されたのが機械職人の山葉寅楠(ヤマハ創業者)徒弟養成所設立。明治39年、孝男さん小学校卒業後入社。一期生。

沢田隆吉さんのピアノに魅せられ、独学で勉強を始める。

音叉を使って図るラの音の振動数は1秒間に440回。この音を基準に弦の針を調節し、ほかの音の振動数を変えてゆく。その差が「ドレミファソラシド」の音階。

結婚。晴臣さんの母が生まれたあと日本楽器争議が起きる。独立を決意。31歳。

調律師を調理師と間違えられた。当時の日本には「調律」が言葉としてなかった。

「調律の音が完成するととても美しい音色で完成の合図の音色を奏でる祖父。それがとても好きで、音楽的な人なんだろうなと思っていた」

レオニード・クロイツァー

東京音楽学校教授。戦時中、ナチスからの迫害を逃れるため日本で暮らしていた。孝男さんは演奏会に同行した。

調律は黒子に徹すること。

晴臣さんは調律師になりたいといったが、孝男さんに即座に反対された。

音楽的な耳の良さと、調律的な耳の良さは、必ずしも一致しない。音楽を相当やった人が途中から調律志望に転向した場合より、はじめから調律に進んだものの方が概して良い。

座右の銘は「美音求真」