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ファミリーヒストリー 坂本龍一 福岡県朝倉市甘木町 ルーツは黒田家の足軽。父は編集者 三島由紀夫「仮面の告白」

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両親も亡くなったし、先祖のこととか聞いておけばよかったなと、最近思うことが多くて。あまり知らないです、僕は。

坂本家

曽祖父 兼吉

福岡県朝倉郡甘木町(現在の朝倉市)旧三奈木村の英彦山道の坂の下(甘木から車で30分)から出た人。
「坂本」由来は山の麓(ふもと)
兼吉の父、武七は足軽。他藩からの侵入者を防ぐために家族で住んでいた。

坂本 山の麓というのは考えてましたよ。なぜかっていうのは、よくあるのは落ち武者とかね、全国にあるじゃないですか。平家の。だから平家の血筋かなと思ったら足軽でしたね(笑)

明治になるとここでは暮らせないということで、当時非常に華やかだった甘木町へ。料理坂本 昭和の初め頃まで営んでいた。兼吉さんは親分。神社にも記されている。

兼吉の長男 昇太郎(龍一の祖父)

興行を取り仕切る父の影響で、芸事好きに育つ。甘木歴史資料館には「最も喝采を残した甘木藝界の達者である」「素人藝人演芸人気投票 歌舞伎部門特一等」との新聞記事がある。盆にわかという素人歌舞伎が盛んで、演技指導をするほどだった。22歳の時、料理坂本で働いていたタカと結婚。昭和6年、街の有力者たちが出資し、芝居小屋「甘木劇場」ができ、29歳で経営者になるが2年後、殺人事件が起きた。昭和8年1月5日、劇場の入口で始まった喧嘩に窓口の男性が巻き込まれ、刃渡り4寸(約12cm)の刃物で刺され亡くなる。昇太郎は責任を取り、劇場の経営から身を引くことに。福岡の生命保険会社に単身赴任。赴任先で女性と暮らし始める。

昇太郎の長男 一亀(龍一の父)

父に代わり弟たちを厳しくしつける。
三男昇 父の事も影響はあったと思いますよ。特別な家庭環境だったので。

朝倉中学校(現在の朝倉高等学校)進学。→昭和16年、日本大学文学部に入学。太平洋戦争勃発、徴兵。学徒出陣。佐賀にあった電信第二連隊へ。佐賀から戦地に情報を送る任務だった。
河出書房新社には亡くなる半年前に記された手記が。

惨憺たるものだった。毎日何回とビンタをくらい、しゃもじで頭を割られたこともあった。

昭和19年、旧満州に配属。マイナス30度の極寒の中、モールス信号を送り続け、凍傷にかかる。

右の薬指である。軍医殿が見てメスを取る「見習士官だから麻酔はしないぞ」と言って、一気に爪を切り離した。

昭和20年、筑紫野市の通信基地に異動。満州に残された者はシベリアに渡り強制労働。4ヶ月後、終戦を迎える。半年後に鋳物工場で働きはじめる。給料の安さなどを嘆く社員たちのために、社長に直訴したものの社員が黙っているため工場をやめる。

文学が好きな若い人を募り、同人誌「朝倉文學」を発行。たまたま来ていた東京の編集者の目にとまり、河出書房新社へ。小説の編集を担当。入社2年後、父昇太郎から「上司の娘さんから、お前の担当した小説を読みたいと言われた」と電話がある。(椎名麟三「永遠なる序章」)本を持って行った先でその娘さん(下村敬子)と運命の出会い。
椎名麟三 - Wikipedia

少しでも私が弱音を吐こうものなら、気迫のこもった口調で私を励ましてくれたのである。未知数である作家の可能性を信じているふうである。しかも神経質なほど、私の家の経済生活にまで配慮してくれたのである。(「永遠なる序章」のころ)

一亀は新人作家の発掘に力を入れ、大蔵省に勤めていた三島由紀夫に「長編小説を書いてみないか」と勧める。

彼は二つ返事で快諾した。自分はこの長編に作家的生命を賭ける、ということをはっきりとした口調で語った。

一亀に出した手紙

今度の小説 生まれて初めて出した私小説で 今まで仮想の人物に対して研いだ心理分析の刃を自分に向けて 自分で自分の生体解剖をしようといふ試み。相当の決心を要しますが 鼻をつまんで書きます

その作品が昭和24年7月5日発表「仮面の告白」

ほかに担当した作品は水上勉「霧と影」

坂本一亀という人がおって、それを四遍書き直させた。700枚の小説を四遍書き直すと二千八百枚。四回閉じた時の気持ち、考えてみろよ。

昭和43年「人に歴史あり」出演。当時46歳。
一亀 企画が通ろうと通るまいと、彼はこの一作にかけて再起しようと、半日がかりで二人で話し合って、全面的に書き直すと。彼は「4回書き直した」と言ってますけど、実際は3回。

くり返し言っていた言葉は「妥協するな 最善を尽くせ」電話で作家に怒鳴り散らしていた。60歳までいち編集者として貫く。16年前、早稲田の大学生が「卒論のテーマに三島由紀夫を書きたい」と一亀に手紙を書き送ったところ快諾。卒論を見せると直しが入って返ってきたが「僕の言うことで意見が変わってはいけない。君のままでありなさい」と言われた。

今田 編集者のイメージといえば、もしかするとお父様だったかもわかりませんよ。編集者といえばどなる、バカヤロー、みたいな
坂本 タバコいっぱい吸ってね
今田 やり直せ!!みたいあ、原稿バーンみたいなのって
坂本 (妥協するなとは)僕もそういうことはよく言われましたね。僕は妥協の人生なので
今田 またまた(笑)妥協で行けまっか、アカデミー

下村家(龍一の母方)

曽祖父 代助

長崎県諫早市で農業を営んでいた。小作人だったが土地を捨てて佐世保に移住。市役所の臨時雇いとして働く。
腰に鈴をつけて走るのに気づいた人がなにか仕事を頼む、今で言うところのなんでも屋で報酬を得る。

三男 弥一(龍一の祖父)

佐世保市立白南風小学校。授業で習ったリンカーンに感銘を受け、立身出世を夢見て旧制中学に進みたいと希望するも叶わず、佐世保海軍工廠(こうじょう)で働く。3年後、編入を認めて欲しいと佐世保中学の校長のもとへ直談判。試験ができたら編入してやろう、と言われ、翌年3月合格。4年から編入。のち、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)に合格。池田勇人とは天下国家を論じる仲に。大正11年、京都帝国大学(現在の京都大学)法学部に入学。2年後、小学校時代の恩師・三浦朝千代が娘美代を連れて「娘の結婚相手になって欲しい」とやって来る。2年後望み通り結婚。共保生命入社。3年後敬子(龍一の母)誕生。支部長~新橋支店長に昇格。取締役にまで昇り詰める。美代は子供たちに対し教育熱心で多彩な音楽を聴かせ、敬子は読書好き、スポーツもなんでも器用にこなした。

弥一は昭和46年、東亜国内航空会長に就任。平成2年、92歳で死去。

父・一亀との確執

龍一は言いたいことは母を通して。父の顔を見るのが怖かった。
だけでなく、人の目を見ない。楽しみは数学教師だった叔父・三郎の家に行くこと。たくさんのクラシックレコードを持っていた。中2の時にドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏にど肝を抜かれた。

YMO。父は「俺はお前をピエロにしようと思って音楽学校に入れたわけじゃない」と激怒。ラスト・エンペラーでアカデミー賞を取ったあと、祝賀パーティーでも父子は目を合わせていない。

平成2年、沖縄民謡を取り入れた曲をアルバム収録した際「これはお前の(オリジナルの)音楽じゃない、なんでこんな物を入れるんだ」と。僕はそれは好きな曲で、自分なりにアレンジし、自分の音楽としてやってるので、こっちもだんだんムッとしてきて「いや俺の音楽だ」口論になって、本当に初めて大喧嘩になりましたね。

今田 僕らは見てた人間なので、まさかあの教授が
坂本 怒られてると
今田 アカデミー賞の時なんて、誰も周囲で怒る人なんておらんだろうなと。意見できる人なんておらんやろなと
坂本 いましたね(笑)滅多に二人でしゃべることはないし、話しても目線は合わせないですね
今田 不器用ですよ
坂本 全然向き合えない
今田 不器用ですよ二人共。イ~ってなる

平成14年、80歳で死去。お別れの会で配られた冊子から

父とまともに話をしたことがないのが悔やまれる。創作に携わる者の大先輩として、聞いておきたいことは山ほどあった。父は自分の思いを他人に伝えるのが、下手な人だった。愛するのも愛されるのも下手な人だった。最後までそういう人だった。

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