吉岡家
大田区蒲田
小田原北条氏に仕え、旧蒲田村を所有、花の栽培などをしていた。北蒲田は切り花の本場。生花店は官庁や宮内庁御用達(生花商は曾祖父の権次郎)
明治以来、村長、村会議員に吉岡姓が多い。
祖父・正雄、父・正隆
舞台やテレビの美術担当。
昭和7年生まれ。家業嫌いの父の影響で、映画街や見世物小屋、オペレッタレビューに連れ出された。
祖父・正雄は郊外に家を買おうとしたが詐欺にあう。戦後、行き場を失い、宮城県栗原市・祖母たによの実家に(玖光院)。
正雄は役場に勤めたが長続きせず、胃潰瘍で吐血し入院。厳しい暮らしに。正隆は、たによの兄が教師をしていた、古川工業学校の建築科に進学。卒業後上京。個人工務店に就職する。が、曾祖母なるが半身不随に。介護のために関西へ。なるはたによの元で亡くなった。
昭和27年、宮城から引き揚げた。正雄は埼玉大学で警備員。
昭和28年、21歳の正隆は新聞広告で東宝舞台を見つけ、入社。大道具のセットを製作する会社。
この仕事は、多分に建設的業務で、やっと納得できた業務を見つけた思いでした
衣装担当で入社した中澤明子と知り合い、昭和35年結婚。帝国劇場の大道具責任者を任される。
「風と共に去りぬ」スカーレットの階段落ちのシーン。坂にして転げ落ち、最後にバッと階段を元に戻す。
平成26年(2014年)、正隆は81歳で死去
中澤家
大叔父は新田義貞。
中澤修理大夫重清は、新田義貞の孫。
新田義貞は、足利尊氏と対立。一族は離散。幼くして身寄りを失った重清は、家臣・中澤家に育てられ、名乗るようになった。新田神社の碑文にも伝えられている。
明治26年、孝(たか)誕生。大正7年、開業したばかりの歯科医、安井竹三郎と結婚。竹三郎は生涯に3回名前を変えた(柴木→安井→中澤)柴木のルーツは大坂城に仕えていた下級武士。
昭和9年、母明子誕生。
昭和18年、兄・正一は京都大学医学部に入学。翌年海軍少尉となる。海軍通信学校で電測を学ぶ。海防艦「昭南」に乗り込み、シンガポールに到着。艦長は飯塚倶吉。
南シナ海でアメリカ軍の攻撃を受け戦死。24歳。
竹三郎の歯科医も尼崎空襲で全焼。赤穂に移る。
明子の姉・澄恵は宝塚歌劇団で活躍していたが、結核を患い脱退。昭和40年死去。舞台に立てたのは発病までのわずか6年間。