1983年を振り返る
もう書くまい書くまいと心に決めていたのに、冒頭の金ちゃん、濱田岳のナレーションで気が変わった。
「今は難しい立場にある彼のことについて話をして欲しい」そう頼むと、もうひとりの彼は快く引き受けてくれた。
話をする気持ちになったのが意外だった。もう年を取るまで、還暦越えぐらいまでは、清原への気持ちに封印をすると勝手に思っていた。思い込みだった。
例の事件以来2年余、桑田が清原について語る場面はあまりなかった(観測範囲が狭いのかも知らんが、逮捕直後ぐらいしか見ていない)。
桑田真澄
1年で初めて公式戦登板をした日。
恐る恐るマウンドに上がったんですけど、当然清原くんファースト守ってた。1年生どうしですから、話をするわけにもいかず。「頑張れよ」って目をしてくれていたと。「何1年で話してんだよ」そういう時代ですから。
一度ピッチャークビになりまして、ここにいても3年間メンバーになるのは難しいかなと。転校さしてくれ、やめさしてくれと、母親の前で大粒の涙を流し、泣きながら連れて帰ってくれと言ってた時もありましたね。はい。本当に野球辞めるつもりでした
「男道」からも引用するのか。ふたりは以心伝心だった。自分の持ってる写真集からも画像が出た。母親のくだりで涙が出そうなのはうちの坊とだぶってしまうから。今も大学で野球をしている。社会人でも続けたい、入りたいチームがある、言うてきおったがの。
対 吹田高校戦、KKはメンバー入り。桑田、被安打2で完封。清原ホームラン。
当然ふざけるなという感じですね。「お前がいるから俺たちはこれで終わり。お前の存在自体がムカつくんだよ」みたいな雰囲気だったですね。3対0になった時点でキャプテンはじめ内野の先輩が「お前やるじゃないか。なんで今まで隠してたのか。がんばろうぜ」言ってくれたんですよね。野球は実力の世界。試合で僕のボールを見て認めてくれたんでしょうね、おそらく。キャプテンはじめ皆が声をかけ始めた。その日から僕の人生がグッと変わり始めた。
※83年の雑誌を買ってないん悔やまれる。高校生(KKと同い年)やし小遣いなかったし。
井元秀人
同期。やめようと思った桑田を励ました。大学卒業と同時に野球をやめ、現在大手町のサラリーマン。ぽっちゃりやな。※輝け甲子園の星1985によると「好きなタイプは斉藤慶子」時代やねえwカフェオレ色に心まで灼いてしまいたい♪CMやな。
ちょうどバックネット裏のスコアボードで、SBOとかスイッチ入れる係があって、その時にポツっと「もうピッチャーダメかな」言ってたのは覚えてます。「いや、そんなことないから、がんばろう」話をした記憶がありますね。
彼(清原)は「左方向に打つの禁止」上級生に言われていたんです。ホームランになっちゃうから上級生より目立っちゃうじゃないですか。しかも1年生は木のバットとか金属バットはともかく、竹バットでしかも折れてるんですね。で、それを使えと。
清水孝悦
KKコンビの1年先輩。下級生の指導役。出てきた瞬間声を上げてしもた。何十年ぶりかに脳内同窓会を開いてる。長くPLのコーチをつとめ、現在は藤井寺「ふじ清」(梅さんみたいやな、ど根性ガエルの)手元の「甲子園の恋人たち」(1984年版)では定期入れサイズの写真の中。自分が持っているのは84年、85年版。甲子園出場組がたくさん掲載されている。この中で指導者など、その後も野球に携わった者は何人いるのだろう。石田文樹のように病に倒れてこの世を去った人もいる。眺めていると、懐かしさの一歩手前でこみ上げる苦い思い出に言葉がとても見つからないわ。←なんの曲の歌詞でしょう
西武のときでも山菜巻き食いたいわ、とか、持って来てーや、いうふうにね、来たら言ってたんですけど。やっぱり僕キャッチャーで、ずっとあいつ(桑田は)ブルペンで練習の時から受けてたんですけど、右バッターのアウトローに10球連続で決まったら終わりという練習があったんですよね。それは僕がPLのコーチしてもピッチャーにやらせたんですけども、やっぱ3球5球までですよね、よくいって。前田健太でも5球から7球ですもんね。あいつの場合はアウトローの一番低めの10球連続で。ほな10球で終わったんですよ。僕はミット動かさんのですよ。ひとつも。
とにかく1年生は夏出れないもんであって、出るやなんて言ったら,もうえらいことやというぐらいの、僕ら教育受けてたんで。指導者や監督やコーチから、とにかく1年生でいいのが入ってくるから「孝悦お前なんもするなよ」とかいろいろ言われたんですよ。ちゃんとしろと。
2024年追記 知人の紹介で山口県鴻城高校の総監督に。
84年「甲子園の恋人たち」定期入れサイズ写真より
松山秀明
同期。長らくオリックスの印象が強い。現在はホークス2軍コーチ。ちょっと大友康平入った顔つきちゃうか。
衝撃的だったのは清原ですよね。高1の段階で大人と子供の違いがあって。比べれないですね。もう別格です。すべてが。ほぼホームラン。練習で10球マシンで打てば8球ホームラン。
同期で同部屋の滝口隆司(現在はスポーツ紙の記者)は桑田とランニングをするとき「死ぬ一歩手前まで走ることだ」と言っていたのを聞いた。
83年夏の甲子園
水野雄仁/江上光治
なめたらいかんぜよ。
水野 自信は120%でしたね。勝利を疑うものは何もなかったですね。清原を抑えたら勝てると蔦監督に言われましてね。桑田は別に眼中になかったですね。ピッチャーとしての桑田も、バッターとしての桑田も
江上 こいつら中学生や、みたいな感じで見てましたね。大量点いくな、という。
岡沢克郎(フォトグラファー)
清原は練習中にVサインをしたり、そういうタイプ。人懐っこいというかね。初めての人も平気、人見知りしない。桑田って人は頑固なんですよ。人懐っこい点はあるんだけど、頑固で恥ずかしがり屋。
Gakkenの封筒から取手ニ高の練習試合の写真出しよるけど、もしや甲子園の恋人たちとかにも携わった方かな。
1984年夏の甲子園
取手ニ高
桑田:取手ニ高の野球スタイルですね。笑ってる。失敗しても笑ってる。次頑張るぜ!って感じ。それまでの野球観は、グラウンドで歯を見せない、三振して笑うなんてありえない、それが当たり前の時代、野球スタイルだった。なんで笑ってるんだろう三振して。僕は苦しんでたんですよね。全国の球児が打倒PL、打倒桑田、打倒清原に燃えて練習してくる。いろんなことを感じるようになって、プレッシャーが掛かってきたんですよね。
中島彰一
悪ガキって言ったらあれですけども、各中学の当時番長じゃないですけどね、ガキ大将が寄せ集まってきたような、そんなチームだったような気はしますね。(練習試合では13対0でPLが圧勝)終わったあと桑田くんがつかつかつかっときてね「これが茨城県ナンバーワンのチームですか?たいしたことないですねえ」みたいな事を言ってたよ、みたいなことを言われたんですよ。そんときに悪ガキの連中がいっぱいいましたから「何このやろう、1個下のやつらが」と。
木内幸男元監督
じいさまをそんなにおむかえして(笑)取手ニ高のチームが一番面白かったです。非常にやんちゃだけど納得が行けば本当にどんな思いでもしてくれるという子供らですから。当人がよしやろうといった時に強い。その代わり、やりたかねえ時は弱い。それでも負けたくない精神はあるからね。今までのバッティングじゃ桑田クラスは打てねえんだということを子供らで話し合った。負けさせるのもいい手なのよ。いろいろ考え出しますから。ということは勝ちたいのよ。そんじゃ勝つ方法をこちらが伝授すれば乗ってきますから。はい。
木内監督が焚きつけた説w
亡くなって10年。かれも悪ガキだったのかな。木内さんより先に逝くなんて。玉国さんより先に逝った藤井進さんのよう。
後半は清原和博を語る
「清原に洗濯をさせると毎日ソックスがなくなる。新品12ダースが10日で。体はでかいんですけど八重歯を出してにこっと言いに来る。正直可愛い」(1年先輩 高松省平/清原が付き人をしていた)10年前に妻を亡くす。「一言で言うとあのふたりに対しては夢ですね。自分が野球やめても、あの2人は現役でプレーしている限り、ずうっとやっぱりどこかで自分もプレーしてるような。2人には野球人として夢を頂いた。
清水哲:俺の分まで、桑田が、清原が、プロの世界で頑張ってくれる。なら俺も頑張って生きようと思えるようになりましたね
桑田:(高2の時)珍しく清原が試合前に来て「相手の四番には絶対打たさんといてくれ」「え、なんで?」「おれと一緒で2年で四番や。絶対打たさんでくれ」僕はストレートでガンガン攻めていくわけですよ。そしたら清原が途中で「桑田!カーブも使っていこーよ」って言うんですよ「いや、抑えればいいんだろ」(笑)ストレートで行くと「桑田、カーブも入れようよ...」「なんで」「俺は打つけど奴らには打たさんで」(笑)抑えました。
水野に打てんかって、げっそり痩せたんやな。伊野商の時も打てなかった。渡辺智男は現在、西武の四国地区のスカウト。高校時代は肘の不安と闘っていた。甲子園では毎打席三振を狙っていた。
野村弘樹:マシンを最速にしてガンガン打ってた。あの映像は走馬灯のように焼きついてましたね。この人でもこれくらいやるんだ、ていう。常にバットを持っておられるし、寝るときもバット抱いて寝てましたから
なら、なしてや。なしてあんなことしたのや。いまさら言ってもしょうがないけど。
さいごに
なんでこのタイミングで語りだしたのか、いろいろ想像してみた。思うに「100回記念」「清原告白本出版」だけじゃなく、もしかしたらPL野球部が無くなったからかな。だってそんなに過酷だと知ったら、なんぼ昔のことでも(今もあるかもしれん思って)子供を入学させるのためらう親がおるかもしれんやん。83-85年といえば自分も高1~高3。ヒット曲は「天国のキッス」~「BYE BYE MY LOVE」までをさす。15、16、17と あたしの人生暗かった そんな日々に差し込む一筋の光がKKコンビだった。時はゆく すべてのことを 思い出に変えながら。さて、この記事には4曲、歌詞の一部が出てきます。検索などせずに4曲すべてお答えください。そのうち3曲は80年代のヒット曲です。この3年間の話ならレモンサワーやハイボール片手にいくらでも出来る。田上さんの店に行きたいけど遠いなあ。
桑田真澄 僕ら二人は野球界に恩返ししないといけないんですよ、いろんな方法で。キヨらしい方法で恩返しして欲しい。それが僕の願いですね。
追記 2018.9.30放送「消えた天才」より
1985年メンバーを振り返る。安本政弘、杉本隆雄は会社員(出演なし)
桑田真澄
実に桑田らしい言葉。
いろんな同級生がいますけど、プロ野球選手になれたからいいんじゃなく、最期死ぬときにいい人生だったなあと自分が思えれば最高の人生になる。(人生を野球に例えると)いまちょうど6回が終わって7回に入ろうかなってぐらい。野球は最後の最後までわからない。人生の勝利投手に向かって努力していきたい。
内匠政博
桑田 派手なガッツポーズを一切せず淡々と。シャープですね。ペッて感じ←言い方が長嶋さん
近畿大~日本生命~近鉄ドラ3~現在はオリックスバファローズのスカウト。
本間俊匠
桑田 本間ちゃんは変化球来たらごめんなさいだけど、真っすぐは強い。走塁にしても守備にしてもまっすぐ突き進む。槍ボーイ。
東洋大~NTT中国 36歳の時、不動産業を営む父親が急逝、10億の借金を背負う。NTT退職し、事業を引き継ぐ。俺も仕事で頑張ろうと、年商1億円企業のオーナーに。少年野球のコーチでもある。
笹岡伸好
桑田「目立たないんだけども」強調しすぎw
同志社大~NTT西日本 総務部課長。プロ入りできんかったことに後悔はなかった。
黒木泰典
法政大学卒業後、プルデンシャル生命保険大阪第二支社長。
PLのやり方に固執しすぎてうまくいかず、4年間試合に出られなかった。KKコンビに嫉妬してた。人生では負けたくないと転職。2017年支社長に昇格。「プロになってたら今はない。なれなかったからこそ今があるのかなと。後悔はないですね」
「残念ながらプロ入りできず」随所に出てきたの引っかかる。結果が出ないと3~4年で戦力外になるんやで。いろんな生き方があるんやで。
ami-go45.hatenablog.com
もとい、85年版だわ #高校野球総選挙 https://t.co/Ib9rPNn3CS
— あみーご長嶋 (@amigonag) August 5, 2023