宮本輝
映画監督と同じか、もしかするともっと影響を受けたかもしれない存在として、宮本輝さんがいる。表現することの根源にある、ある種DNAみたいなもの。「尊敬する人には会わないほうがいいよ」そういう怖さもどっかにありながら、会って話を聞いてみたい。
宮本輝さんといえばネスカフェ。91年。
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本態性振戦
宮本:去年まではちゃんと万年筆で書いてたんですけど「本態性振戦」という症状が出ましてね。横じゃなくて縦にモールス信号打つ時みたいに震えるようになった。「か」を書くのに「ガガガガ」手で押さえて書いてたんですけど、浮かんだ言葉が、こっちに神経がいって忘れてしまうんですよ。「あれ、今何書こうと思ってたん」しょうがないからパソコンに替えた
行定:残るものとしては、原稿用紙がいいなあと思ってた矢先に聞いて。
宮本:僕も原稿用紙で書きたいんですよ。でももう震えるし、気になってしょうがない。その代わりどんどん漢字を忘れますね。「宮本」てどんな字やったか(笑)
※本態性振戦とは、原因のわからない手の震え。
みわ内科クリニック。本態性振戦の解説。生活習慣病、神経内科の病気の診療。
原稿用紙1600枚に万年筆で書いた、最後の作品。つくづく見ながら、偉いなあ、俺って、と浸るために原稿用紙を置いている。「なんとなく生ゴミって感じもする」
デビュー作「泥の河」
行定:映画を見てものすごく衝撃を受けたんですね。話自体に。で、小説を買って帰ったんです。読んでいくと宮本さんの原風景みたいなものが非常に伝わって来るのが多くて
宮本:原風景っていうとね、みんな少年の頃、子供の頃の育った町とか非常に狭い範囲内の風景と受け取りがちなんですよ。人間の原風景は、ひとつじゃないと思う。たとえば12歳の時の原風景、20歳の時の原風景がある。僕も70になりますけど、その年齢の3倍ぐらい原風景がある。でも根本になってるのは、世の中に触れたとき、他人というものを知ったとき。それを遡ると小学1年生、3年生にならざるを得ない。いくつもの川がひとつに固まってくる。大阪の街そのものがもともと中洲ですから、 そういう川と川が集まってくる場所。僕が小学1年生の頃は、水上生活者が非常に多かった。そういう人たちが作らしてる船に一歩入った時の匂いとか、こびりついてるんです。いちばん書き残しておかなくてはならないものがある。実際見たものは汚くても僕の心の中では昇華されて、非常に美しいものになっている。ひとつ選び出して書いておこう。それが「泥の河」
いかに削るか
最初はそうやって小説を書き出したんです。書き出して、書けるかというと、別のものになる。読み返したら違うんですね。何かものすごく大事なものが抜けてるんですね。書き加える。もう一度読み返すでしょ。読み返すとますます離れていってる。泥の河書く前にすっごく悩んでた時、小説の師匠みたいな人が、僕が最初から大事にしてた書き出しとか、鉛筆で消したんですよ、全部(笑)
「なにするんですか」「あのな、ここからここをなしに書き始められたら、君は天才になれるんや」
いちばんおれが気に入ってる7行か8行を、勝手に鉛筆で消しやがって。腹たって「返してくれ。僕はここが気に入ってる」「...そうやろな」(笑)
家帰ってしばらく、原稿見るんも嫌やし、あのおっさんの顔見るんも嫌や、二度と行くか、弟子の方から師匠を破門にしてやると。で、夜中ふっと、あの人の言うとおり、書き出しをなかったことにして読み返したら、そっちのがはるかにいいんですよ。その時わかったんです。なるほどそうか。
いかに削るか、付け足していくんじゃない、削っていくんだ。書きたいものを書いちゃいけない。書かずに書くんだ。たとえば、金槌で釘打つんでも、コツってあるでしょ?力任せにドーンと打ったって、釘打てないですよね。コーン、コンと打つ。こういうことが、小説を作っていく過程の中に必要なんですね。僕が最初に習ったコツは「取ってしまう」こと。ここが何か足らんな、という時は、もっと足らんようにするんです。泥の河書き終えた時、適量になった気がしたんです。
水上勉さんの言葉
亡くなった水上勉さんに「輝ちゃんお前な、お前には泥の河があるやろ、蛍川もあるやろ.. みんなお前の金看板や。金看板が一枚あるだけで千両役者やぞ」励まされて。もっと云うてください(笑)言うたら「題忘れたけど、男がおって、女がおって」..どの小説でも皆そうです(笑)
作家は山ほどおるけど、その作家の山に生えてる木が一本なのか百本なのか千本なのか、最初のものを読んだらわかるんや。お前は「泥の河」だと。あれ読んだら、宮本輝という山には何百本もの大木が生えてるとわかるんや
「僕は希望を持っていいわけですね」「何回言わすんや!」(笑)
いや、何回も言うて欲しいんです。最近、その金看板があまり売れへんのでね。世の中間違うてるな、思て。
井上靖「あすなろ物語」(1958)
親父が商売失敗しましてね、それだけじゃなく、女ができたりね。母親がほとんどアル中の状態になったんですね。「ちょっと親戚の家に行ってくる」そこで睡眠薬飲んだんですよ。自殺を図ったんです。すぐ伯母から電話がかかってきて「今すぐ病院へ来い」あれ、中学2年生か3年生ぐらいの時。僕が行ったら、母は死んでしまうような気がしたんですね。死んでる母を見るような気がして、俺は行けへんて押入れに入って。たまたま1週間か10日ぐらい前、知り合いの人が文庫本を1冊貸してくれた。それが井上靖さんの「あすなろ物語」だった。母親が死ぬか生きるかの状態で、押入れの中で読んだ。お昼の2時ぐらいですね。夕方、あかないようにしてたはずの押入れを父がバッと開けて「助かったぞ」ページはめくってたけど、読んでたかどうか未だにわからないんですよ。オヤジにしてみたら、どう感じたのかなあ。またバタンと押し入れを閉めて、出てったんですよね。全部読み終えるまで押入れから出なかったの。そういう状況で読んだ。文学ってすごいものだな、小説って素晴らしいものだなと思った。だけど小説家になろうとか書こうとか、夢にも考えなかった。
大学卒業後、広告代理店、作家になるまで
広告って消費物なんですよ。今日書いて、明日自分の書いたキャッチコピーが載ったらおしまい。それでも一生懸命書くわけ。だんだん辛くなってきた。残るものを書きたい。10年経っても20年経っても、厳然とここに残るものを書きたい。そこがスタートですね。思い切って「3年間だけさせてくれ」と妻に言って、芽が出なかったら諦めて働きに出ると。3年じゃ無理だろうなと思いましたけど。サラリーマン時代の方が思い通りに行かないことが多かったけど、割としたたかに乗り越えてきた。忍耐力があるのかな。小説を書くのが嫌だとか考えたことは一度もない。
好きな作品
追手門学院大、宮本輝ミュージアム。すごい。行きたい。マイファースト。学生の頃読んだ。84年ドラマ化。のちにKindle。
映画化された作品ではいちばん読み返す泥の河、幻の光、花の降る午後...読んでから観るより、観てから読んだほうが違和感無かったかもしれず。今となってはそう思う。
後半は行定勲の故郷、熊本。
夜に見る(ライトアップされた)熊本城。地震が起こってどうするかなあと。下向いた人たちが熊本城を見るようになった。
仕事場はエフエム熊本 月刊行定勲
奇しくもこの番組の収録が決まってたんですよ。前震が起こって、その翌日に放送をして、その夜中に本震にあった。神様が呼んでるというか、ライフワークがラジオだったりするので。
うつくしいひと
熊本のために映像を作るとかずっと断ってきた。ある時映画祭を手伝うようになって。熊本に愛着が沸いてくるんですよ。歳をとったからかもしれないんですけど。40代過ぎて。熊本のために何かできないかなと思ってたら、映画作りませんかと言われて、それで「うつくしいひと」ができた。地震前ですね。最初はしっとりとした、ささやかな恋心を伝えるシーンだった。それが熱い恋心を伝えるシーンになり、僕の想像しなかったことなんですね。
中岳の加工がちょっとだけ映ってる。夕日の力強さと一緒に、その時にしかない一瞬の光。風景の持つ力。そこに惹かれてその場所を選んだ。空気とか光、そういうものを追い求めているというのはあるかもしれない。美しかった熊本を見て悲しい気持ちになるかもしれない、落胆するかもしれないと思って。封印かもしれないと思った時、県外の方たちが観て「美しいくまもとを打ち出して、むしろここに戻って、ひとつの復興の道がさらに進化した熊本になるために上映すべきだ」と。熊本で上映したら長蛇の列になって。
あるおばあさんが「傷ついた熊本城を見て、あの美しかった記憶が全くゼロになってしまった。思い出せない。ただあなたの映画を見たら、子供の頃とか、いろんな積み重なった思い出が溢れて涙が出てきた」おっしゃるんです。
宮本:絵葉書ではダメなんです。映画に映るちょっとした石垣とか熊本城の独特の石垣とか、動く映像でないと。郷愁とか、切り絵みたいなものを思い出さない。
10歳の頃、父親と見た「影武者」エンドロールに流れる人数を数えて「この中に潜り込める」と思った。唯一無二の黒澤明にはなれないけど、映画のスタッフの中で生きられる人生って幸せだなと。
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