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【まとめ】ファミリーヒストリー ケンドーコバヤシ

オセアニアの蛮族の生まれとか
ちゃんといっぺん裏取って確かめときたいな、と。全く知らないですしすごい不安。僕一皮むいたらノーマルヒューマンじゃないですか。うっすら聞いた記憶では母方のおじいちゃんが戦争でロシアに行って捕まったという話を聞いたことがある。

母方の祖父・高さん

本籍地は岡山県

明治39年誕生。有漢教員養成所(教員不足を解消するために作られた)2年間の授業料は無料。卒業後は実家の近くで教師に。

髭が濃く、剃り跡が痛かったため教え子に「ヒゲがええか、げんこつがええか」と言っていた。

昭和8年みよしさんと結婚。昭和12年日中戦争。2年後小学校教師として再び働く。35歳で教頭に(ケンコバに顔がそっくり)昭和19年みよしさん流産、入院。翌年”根こそぎ動員”で再招集。平壌鉄道員終戦。10ヶ月間抑留される。突然列車に乗せられるが日本とは反対方向。元抑留者の証言によれば黄色い砂漠。ウズベキスタン。ナヴォイ劇場も日本人抑留者が建てた。高さんは「棟梁」と呼ばれ、抑留者のまとめ役だった。

※収容所は現存。(タシケント第一収容所。今は団地)楽しみにしていたのは食事の時間だったが、黒パンと僅かなスープだけ。栄養失調で亡くなる人も数多かった。スープを飲むのに必要だったのがスプーン。支給されなかったため建設現場の鉄くずで作ったり。平和祈念展示資料館に展示されている。

スプーン作らされてたって話を聞いた。でっかいスプーン持っていた気がする

母が持ってた。

みよしさんは教員を続けた。昭和24年、高さんからの手紙を受け取る。翌年ナホトカ港から引き揚げ船高砂丸で帰国。※戻った様子は日本ニュースに残されている。
今田耕司:そんなスプーンを、ようラッキョに使うてんなあ(笑)

3年後校長に。昭和37年定年退職。村長選挙に立候補、落選。4年後挑戦するも再び落選。3度目の挑戦を試みたが肺がんに。「雁のように飛び回りよったけど、わしの体にガンが来たんじゃ」昭和45年、65歳で死去。

ケンコバの父ちゃんは銀行員。父親同士が決めた縁談やったんやん。有漢教員養成所で父方の祖父と高さんは同級生。友を治すと書いて友治(ケンコバの本名)