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【抜粋・感想】ファミリーヒストリー 星野仙一 

父・仙蔵

仙一さんが生まれる3ヶ月前に他界。
「ほとんど知らないですね。目の前の野球のことしか考えてなかった」
母は星野姓。仙蔵の苗字は正田(まさだ)姓。籍は入れていない。両方跡取りが必要で、最後の子供は母の跡を継ぐ約束で結婚したので仙一さんは星野姓。

愛知県西尾市吉良町

饗庭(あいば)地区に星野卓二さん在住。卓二さんの祖母いくさんは、仙一さんの祖父嘉市さんときょうだい。
・星野玄道(高祖父)
墓の側面に履歴。学医。人柄も穏やかで成績優秀。
尾張藩医・浅野春道(1769~1840)
玄道の実父は、本草学は病気の治療に使われた。星野家の婿養子となる。開業医であり、寺子屋の先生も務めた。71歳没。

嘉市さん結婚~娘敏子さん

歩兵第十八連隊に所属。28歳で結婚。
妻まきは病弱だったため22歳で亡くなる。娘(敏子さん=仙一さんの母)は、まだ2歳だった。
関東大震災で父子は名古屋に避難。敏子は第二高等女学校卒業後、16歳で看護師に。患者・正田仙蔵と知り合い結婚。

仙一:歴史、経緯というものはしっかりと知っていなければならないんでしょうけど、それより未来のこと、将来のこと...

正田仙蔵さん(仙一さんの父)

明治31年生まれ。岡山県瀬戸内市長船町
現在、正田家のあった場所は更地に。女の子ばかりの家であったため、仙蔵は農家の養子として迎えられる。やがて「飛行機乗りになりたい」と家を出る。

三菱重工業 名古屋航空宇宙システム製作所
大正9年、航空機のエンジンを作る会社として発足。ここで現場のリーダーとして働いていた。部下のミスを、あえて翌日に叱っていた。お互い冷静になってから。部下からも同僚からも慕われていた。

昭和15年、仙一さんの姉美和子さん誕生。
子煩悩な父。お馬さんごっこの絵と詩がかわいかった。

倉敷に三菱自動車工業(旧・水島航空機製作所)建設。
昭和17年、43歳で三菱水島青年学校の工長に。
昭和20年、空襲で壊滅的な被害を受ける。
仙蔵は脳腫瘍で入院。
終戦後退院し、焼け出された人たちを家に泊めたりして随分面倒を見た。再び病に倒れ入院。

仙蔵さんが亡くなってからは、家財道具や着物を売り払い、仙一さんが幼稚園に入ってから働きに出た。
「自転車に乗って働きに行く後ろ姿。休みでも農家の手伝い。子供心にそういう記憶が多い」
小学校に上がると仙蔵さんの部下が紹介した、厚生施設 水島クラブの管理人に。
小4になった仙一さんを仕事帰りに見た母は、息子ひとりだけグローブを持ってないことに気づき、なけなしの蓄えから千円を出して買った。仙一にとって生涯の宝物に。ここから野球人生が始まる。

僕がプロ野球に入る、と言うと母は「馬鹿なことを言いなさんな、これだけお世話になったのだから、三菱に入りなさい」と反対した
ドラゴンズ入団。仕送りの現金封筒を全部取っておいた。4年間、当時のお金で330~340万。
契約金いただいたものだから、400万持って倉敷に帰り「おふくろ、これありがとう!」と言って持っていった記憶があります。

母は息子がプロ入りしても独身寮(青雲寮)で働き続けた。たまに球場へ行っても外野席から声援を送った。
仙一の母とは名乗らずに。

晩年はお世話になった人の家を「お別れに来た」と訪ねた。

僕、周りに見守られてたのかなあ。人間として、人間を好きで、人間に優しくしようというようなことかな...まだまだそのレベルまで達してないかもしれないけど、また新たに教わった。両親に教わったかな。オヤジにお袋に。

追記

2018.1.6 朝の速報で起こされた。自分の誕生日に亡くなっていた

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もしかしてこれが最後だったのかな