宮川家は京都でも有数の問屋だったが
火事で多額の借金を抱えた。
普通の家では起こらないようなことが次々。
いま父の雅次さんは個人タクシーの運転手。
祖父の芳太郎さんは
1922(大正11年)、16歳で京都に丁稚奉公へ。
櫛やかんざしを小売店に卸す問屋だった。
28歳で独立。小間物問屋「宮川芳商店」を開く。
昭和12年日中戦争。ぜいたく品の取引は禁止に。
昭和19年雅次サン誕生。店を烏丸通に移転。元旅館を自宅兼店舗に。
ナイロンなど新素材でバッグや風呂敷を売り出すと大ヒット。
雅次サンの友達って桑原征平サンやん。久しぶり見たなぁ。
家に遊びに行くと「坊ちゃん お友達でございます」3階に通され
京都の和菓子に爪楊枝も黒文字。ぼんぼん育ちなのは仕方ない。
「つらくても逃げるな。一生懸命に生きることが大事なんや」と
祖父は父に言っていた。
昭和37年、東洋フライ級タイトルマッチ
海老原×チャチャイ戦
観客に祖父の姿。映像が残されていた。
桑原さんの証言によると判定負けしたチャチャイの控え室に祖父が行き「ええ試合した」と慰めていたそうな。
祖母ユリ子サンは平安女学院卒。優等生でムードメーカー。
離婚して大輔サンの母親を育てた。
看護士時代は寝癖のひどい患者さんの髪をアップにしたり
心をつかむのが上手だったとか。
大輔サンの性格は祖母の影響が強い。
「人生は楽しい。 どうしよう あかんとおもったらそっちへ行く」
母方の5代前は永瀬源七。埼玉の鋳物職人。
大輔ちゃんのお祭り好きはこの人の作った神田明神の鉄製天水桶と
つながるかも知れず。
両親の馴れ初めもよかったし、芳太郎さんが亡くなる前日に
ご両親と一緒のドライブに誘ったなんて話も。
大輔ちゃんが生まれた4ヵ月後、店の倉庫付近での
従業員の焚き火が原因で店は全焼。当時の京都新聞の記事も紹介。
立ち直って商売をするも、やがて経営難となり引越し
52歳で個人タクシーを始める。
家系図とか確固たる証拠品がつながってはじめて説得力あるものになる。