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【ファミリーヒストリー 大森南朋】父・麿赤兒(宏)曾祖父・小林佐三(東次郎)

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大森家

先祖は加賀藩の下級藩士

石川県金沢市下本多町。10代前の豊右衛門は本多家の経理に関わる責任者として仕えた。6代前・市之丞は「抱守(だきもり」。

曾祖父・源太郎は49歳でNHK金沢放送局に転職(開局は昭和5年)電信の経験を生かして開局準備~加入課(ラジオの加入者を増やす仕事)ラジオを通して地域文化の発展に貢献。祖父・潤一は宏が1歳の時、三重海軍航空隊教官~テニアン島へ。昭和19年7月、米軍がテニアン島に上陸。8月、38歳の時、手榴弾で自決。


父・宏(麿赤兒

潤一の戦死で母・裕子は心を病み実家へ戻る。祖父・源太郎と後妻・チヨが宏の面倒をみることに。5年生の時、源太郎が無亡くなり、チヨと奈良県に住むおじ(三郎)の家に身を寄せる。

中学高校は演劇部。
麿:親はいないし、仲間を集めて部室でいろいろ話しているほうが楽しい。
齊部哲夫(彫刻家・高校時代の友人)「僕の胸には空洞がある、ぽかんと穴があいているんだ」と。おとうさん早く亡くなって、お母さんのことと。親の愛情みたいなものですかね。そういうものかと推察するぐらいですごいなと。その言葉が印象的

早稲田大学で演劇を専攻しようとしたが学生運動ロックアウト。中退し、劇団に入ったが長く続かず、喫茶風月堂に入り浸る。22歳の時、唐十郎と知り合い「状況劇場」へ

麿:何を言ってるんだこの男は。セリフも風体もおかしいし。その時に何かふわっと一緒にやってみようかとね。

唐十郎:開襟シャツのポケットにいつも手帳を入れて、髪の毛長くて真面目な青年だったんですよ

嵐山光三郎:神社にテント張ってその中で、化け物どもが暴れまわってね、訳の分からない芝居をやるというのはね、こんなに面白いものはないですよ。麿がスターですもん。客が座ってるでしょ、50人ぐらい、5~6人ぐらい頭の上ををトントントントンつたって、ひっくり返って挨拶をするということをやるわけですよ。トリッキーで生意気で面白い

※うわ、笑っていいとも!編集長やん。編C後記80歳(2022年現在

小林家(母方)

曾祖父・佐三(東次郎)

五代前・市太郎は貸し物業。布団などのレンタル。佐三は30歳らいのころ、信陽日日新聞社に招かれ、発行にたずさわった。その後、みずから社主となり実業新報創刊。

片山潜著「普通撰挙」によると、中村太八郎が立ち上げた団体の幹事をつとめた。財産のない人も学歴のない人も国に発言すると国会議員を選べる資格を与えるべきだと。当時は国税年間15円以上払った男子のみ投票が認められていた。

のちに名を東次郎と改め、東洋文藝株式会社取締役に。事業内容は新聞雑誌小説等の材料供給。原稿を全国300余の新聞社に提供していた。「長篇講談」文字起こしして出版。歴史もの、仇討、お家騒動。

芥川龍之介「僻見」というエッセイを書くとき、博文館長篇講談を使っていた
僻見

祖父・東二

父の残した講談を継ぎ「新講談社」に。事業はうまくいかず、不動産業を営む。

母・桃枝

昭和20年生まれ。東二の次女。5歳の時、祖母初枝が亡くなる。後妻を迎え奈良市へ。

23歳の時、新宿でバー「ダダ」を開く。

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ビートたけし:大森君は自分なりの役作りっていうか、役者にあこがれてる感じはそんなにない。現役の役者にあこがれて(松田)優作さんにあこがれて役者になると、たいていマネするんだよね。そういうところが全然ない。たいてい役者さんって熱演したいんだけどね。すんなりスッとやるのはもっとつらいの知ってるから。(麿さんを)知ってるから「おやじはあれだよな」っつったら「そうです」よくグレなかったな」って言ったら笑ってた。全然あの人大人で「あのおやじだからしょうがばいですよ」

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