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SWITCHインタビュー達人達 指揮者大野和士×原田マハ 美術館の学芸員、アンリ・ルソー、楽園のカンヴァス

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原田マハ

美術館の学芸員だった

原田 ひとつの展覧会を作り上げていくプロデューサーのような存在、かつ学術的にも研究をする専門家。日本の場合は学芸員と訳されてる。
大野 どこのコーナーに作品を置いて、というのも技術・センスがいりますよね
原田 そうですね。入ってきた人の見え方が重要で。入口から出口までの大きなドラマを作る。それこそオペラの世界のようなものかもしれません。立ち上がりから、真ん中はこう盛り上げる、ちょっと静かにして最後に導く
大野 満足感を持ってEXITに至る。寂しくEXITに至る時もありますから(笑)
原田 (アンリ・ルソーは)ぱっと見めちゃくちゃ下手だけど何かあるな、ものすごく引き込まれて。将来自分も何かクリエーションの中に取り込んて行って、勝手にコラボができないかと、二十歳ぐらいの時にずっと思ってた。何になるかはわからないけどずーっと想い続けてきました。

大野 そして、小説が初めて生まれたのはいつごろなんですか?
原田 2000年にMoMAにリサーチャーで勤務してたんですけど、冷静に考えるとMoMAにはルソーの絵があるよね、キュレーターの仕事をしてたんですけど、自分の創作の中にルソーを取り込むのを忘れてたんですね。急に思い出して。毎日毎日見たんですよ。ルソーの作品に「夢」というのがありまして。最晩年の大作を毎日見てて。これ、まもなく命を終えようとしている非意図が描いた絵かなって。すごく壮絶なんですね。バランスも構成力もエネルギーも満ち溢れていて。ルソーが描いた絵じゃないんじゃないのって。不思議なほど完成度の高い絵。毎日見ていると疑問も出てきたし謎も見えてきたし、自分なりの結論みたいなものも。もしかしたら私に書けということかなと。いつかこれを必ず自分の創作に取り込むものにしようと決めて。夢と向かい合い続けたので、ミステリーじかけにできないものかと思ったんですね。

楽園のカンヴァス

大野さんは「真実だか彼女の虚構だかわからない。それがものすごくスリルがある」

たゆたえども沈まず

たゆたえども沈まず

大野 こういう人に光を当てて、これからどうなるんだろうと、まず思わせますよね
原田 史実とフィクションを完全にミックスしてますね。冒頭の部分で出てくるのはフランスの画家、シャヴァンヌの「幻想」大原美術館が舞台で出てくる。これらは本当のこと、人物はフィクション。読者の方はどこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなんですか、と聞いてくるんですが、最初から狙っていた。あくまでもシームレスにするのが非常に重要。

盛り上がっても、最後にカタルシスがあって欲しいんですよ。一つの楽曲を仕上げる時とちょっと近いものがある。月刊誌で連載してたってのもある。翌月に読みたい感じにして終わるのは結構好き。1回の章ごとにプチカタルシスを作る。謎めいたことが次に繋がったり、ちょっとだけ出てきた人が次も出てくる、小出しにすることによって読者にノーティスする(気づかせる)。だんだん徐々に盛り上げてって
大野 そこでコントラバスが来るわけですね
原田 大野さんが指揮棒振り上げて終わったらいいな

ピカソとルソー

洗濯船という名前のアトリエでドンチャン騒ぎがあった。パーティーにネクタイを締めてバイオリンを持ってひょこひょこやってきたのがルソー。文献も史実も残ってて。「アンリ・ルソーの宴」1908年。たった一夜のパーティー。こんな奇跡のような一夜。何度その場にいたかったかと思ったか。

言葉で綴るアート

アートは友達のような親しい存在、尊敬する存在。交信してるようなコンタクトしてるような。ただ小説を書くときに難しいことをしてるなと思う。アートって文章にするものじゃない。見てもらえばそれでいいって。いつも書くときに思いますね。
モネの睡蓮は、どんなに言葉を尽くしても書く事ができない。それでも例えば「空を映した水鏡」といえば読んだ人の頭にさっと浮かぶし「ポツリポツリと映った顔」なら睡蓮が浮かんでくる。読者のビジュアルを心の中で再生させるための文章でありたいなと思う。自分の中でだんだんカメラアイみたいなものが動き始めて、まるで自分が監督になったみたいな気持ちで書いてる。情景描写で映像が浮かぶと言っていただくことが多いんですけど。

ゴッホはやけどするな、ってのはあったんです。最後ピストル自殺をする。彼の生き様が先行して情報として入っていたので、やりすぎるとこっちがやられちゃうかなという感じがしてた。長らくアンタッチャブルな存在だったんですよ。

楽園のカンヴァス(新潮文庫)

楽園のカンヴァス(新潮文庫)

大野和士

音をどう伝えるか

オーケストラは、原田さんが「散りばめられた宝石」と言いましたけども、その輝きがわかればわかるほど、みんながそれに対してどんどんどんどん感応して。感覚が研ぎ澄まされて、その宝石をもっと磨こうという、ひとりひとりの意思になってくる。解放された個のスーパー集団みたいなのがオーケストラの極致。

いろいろな指揮の先生を見に行くのが、指揮者になるプロセスとして、とても大切なことだった。そういうとこに行くと、だいたい同じ年代の、指揮者になりたい人たちが来てるんですよ。ライバル意識なんか芽生えて。(メモを)書きながら(隣の)子は何に気づいたんだろうとか。それでもなかなか指揮ができないんですよね。もう飢えてる状態ね。20代半ばね。(ヨーロッパのコンクールは)将来自分もやろうっていう変な集まりなんですよ。もうやる気だけの人(笑)それで賞をいただくと、ご褒美としていろいろな国々で、というのがあるんですね。一等二等ではないがファイナリストには残った。審査員のひとりがクロアチアザグレブフィルハーモニーというオーケストラに呼んでくれた。そこから関係が深まって、私たちの国に来ないか、住んで一緒にやらないかという話になった。その時は嬉しかったですね。やっと一歩二歩進める可能性が出てきた....

91年クロアチア紛争勃発

転機になった時期。内戦状態で練習してますでしょ、爆撃機が入ると空襲警報が鳴るんですよ。ちょっと逃げようと言われていった場所が防空壕。2年半ぐらい続くんですが、そのオーケストラは1回も定期演奏会をやめなかった。毎週毎週金曜土曜、自分の中で忘れることのできない体験の一つに、その期間、普段やってる演奏会の時よりいっぱいのお客さん、完全に満員のお客さんを迎えていたんですね。寒い冬、オーバーに身を包んで何も喋らず黙々と集まる。会場は立錐の余地もない。人いきれで。演奏したあともワーっと歓声が上がってね。これは今でも、音楽をなんでやってるのかということにつながるんですけどもね、なぜその時普段よりい多く人が集まったのだろうと。その場に来て感動することによって人間である証明、人間であることの喜びを感じることで困難な時期を乗り越えようと、きっかけにされているのではないかと強く思ったんですね。そのためにこそ音楽家であり続けたいし、音楽を提供していく強い覚悟を持ってこれからも生きていきたい。