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中居正広の号外スクープ 松坂大輔SP 森本稀哲/ 消えた天才 丹波慎也

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松坂大輔SP

10年ぶりのバラエティ出演

ホークス入団の時、打者転向も考えました。ホークスのフロントの方に「打者で一年やらしてください」と言おうとした。僕がバッティング好きなのはみんな知っていたので。

森本稀哲 楽天戦で投げられる姿を見て、僕らが見た限りでは苦しいかなと。肩の収まりがいいとこにないと上手く投げられない。ドラゴンズのテスト生としていくことになって、そのテストの直前に行った整骨院がいいところで。ほんとにそんなことってあるんだなと思いましたね。

スポニチ倉橋記者 原因が分からず、日本全国30箇所の病院を回った。病院に詳しくなりすぎて、他球団の肩を壊した選手から「いい病院を教えて欲しい」と問い合わせがあった。←あまり接点のない選手からはトレーナーを通じてきた。僕が行ったところでみんながよくなるならと、教えてあげた(優しいな)球団によって行きやすい場所とか。

ホークスから退団の話をされた時に、ちょうど行った病院でうまくハマった。投げられるかも、と。タイミング的にではなく、いろんな所を回っていて最後、そこでハマった感じ。途中から期待するのはやめましたね。よくならなかった時にショックが大きいから。普通しなかった場所に肉離れをしてて。(レントゲンでも)見当たらなかったのに、いい角度で撮れてたから映った感じ。

プロである以上、お金も貰ってますし、(ヤジも)受け入れるしかない。(悪い記事も)見ては後悔してた。1回5失点で降板、自分でこの雰囲気にしてしまったと。周りもどう声をかけたらいいかっていうのかが伝わって来るし

どんな試合でも緊張したことはない楽天戦はどう投げられるか自分でもわからなかった。歓声もらって、ふわふわしてる感じ。初めてあんな感じになりましたね

中日入団のいきさつ

デニー友利 定期的に連絡は取り合う仲だった。去年のドラフトの時、電話でやり取りしてたら「自由契約なんで、行くあてはない。投げてる映像を送るので判断してください」と。「福岡の方たちに投げてる姿を見せられず申し訳ない」とも。当時の監督、森繁和さんにも映像を見ていただいて。

高校の頃など

2018.11.18-19、2日続けて横浜高校出身者特集やったな。入学当時はわざとだろ、と思うほどコントロールが悪かった。同い年のキャッチャーに受けてもらえることがなく、1級上の上地雄輔や、2級上が多かった。まともに投げられるようになったのは2年生から。とにかく練習が怖かった。試合って聞くと解放された気分。剛速球すぎて新品の金属バットにヒビが入った(報徳学園山崎勝己)98年150キロをマーク。和田毅が大学で投球フォームを真似したら、2ヶ月弱で球速が13キロもアップした。松坂本人は桑田真澄に憧れている。ちなみに、お酒も食べ物も甘いもの好きすぎとは、上地雄輔森本稀哲情報。コーラをジョッキで何杯も飲む。少年時代ぽちゃおだったのでニックネームは「とっつあん」
ドラフト前日、ディズニーランドでデートをスポーツ紙に撮られる。

※直接対決で森本稀哲の頭部に打球を当てたあと牽制球。ニヤッと笑ったのだそう。←笑ったのは話を盛ってるんじゃないか
あこがれの秋山幸二からグローブをもらったその日にデッドボールで病院送りに。その後、試合前のウォーミングアップ中、秋山さんの打球がモロに背中を直撃。

今年の倍は試合で投げて、倍勝てるように。結果、チームがプレーオフに出られるように

プロ野球 復活の男たち (TJMOOK)

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消えた天才

丹波慎也

渡辺元智 横浜高校ではナンバーワン。総合的に見ても松坂より上だったかもしれませんね。ストレートの速さ。やがてプロに行く逸材だと思ってましたね
上地雄輔 漫画みたいな人。もちろん珠がめちゃくちゃ速いというのもあるんですけど、それより出てたち。ビビッてくる感じ。ぼくが知る限り一番の天才。その人は淡々と投げて打ち取って。かっこよすぎでしょ。完成度が高かった←38校からオファーが来て、横浜高校に決めたきっかけになった。

高1から甲子園ベンチ入り。新チームのオープン戦で4試合投げたうち、2試合がノーヒットノーラン。4試合で3本ホームラン。打率5割超え。4番に勝手になってた。

23年前、17歳の時、練習試合の後、自宅で就寝中に急性心不全で死去。
上地 監督が自分たちに報告してくれたとき、理解ができなかったんですよ...前の日の夜「失礼します」ってお別れして....数時間前、ただ寝ただけで、起きたら。兄ちゃんがいなくなっちゃった....甲子園を見るたびに丹波さんを思い出します。だから毎年...

※この当時の新聞記事はよく覚えてる。ただただ悲しかった。今見ても涙が出る。

翌週には春の甲子園予選を控えていたが、出場辞退も考えたが、葬儀の時、母の「絶対に甲子園に出て慎也の夢を叶えてください」のひとことが
渡辺 もう やめようというかね、そこに考えが...試合やる、やるまいとかじゃない。何かこう、茫然、漠然としてね。「慎也のためにあすから練習やって、甲子園目指してやってくれ」そこで我に返った。結束が固まった。甲子園に出られなくなってもおかしくないチームでした。丹波が亡くなったことによってチームがひとつになって。丹波の霊を受け継いで戦ったチームじゃないのかなあ。
渡辺監督の財布には、亡くなる前日の投球姿の写真が今もある

センターの松井光介が急遽ピッチャーに。関東大会、宇都宮南との対戦で9回裏2アウト、ランナーなしからの大逆転。
上地 (今もし丹波さんに会えたらなんと言いますか?)やばいかも....もし会ったら言いたいことありすぎて泣いちゃう。キャッチボールしたいかも。それだけでいい。高校に入学して一番最初にバッテリー組んだの丹波さんで、緊張したんですけど試合後に褒められて、寮からお母さんに電話した「丹波さんに褒められた!」

丹波幹雄(兄)

横浜高校鈴木尚典とプレー。15歳で193センチ(弟は184センチ)高校1年冬に肘を手術し、退部。野球の風景を見るのも嫌、野球中継を家で見るのも嫌。無気力な日々を送っていた。弟の急死。家に帰っても明かりのついていない家で両輪がただ座っているだけ。
おやじには「弟は途中で亡くなって、お前は途中で辞めるし。俺の人生なんだったんだ」と言われていたたまれなくなった。

亡くなる2週間前「肩をなまらせたくないからキャッチボールしてくれないか」と誘われる。
「兄貴、絶対プロに行くからね。兄貴もちゃんと練習すればまだまだやれるよ。やればいいのに」その時は受け流したが、亡くなった弟の夢をかなえようと、肩身のグローブを持ってクラブチームに。98年、ドラフト8位でヤクルトへ。松坂の争奪戦から5時間後、最後の指名だった。(2002年引退)