豊田家
本籍は広島県芦品郡府中町(現:府中市)
親戚(豊田和人さん):(IKKOさんとつながりがあると知り)まずびっくりしたのと、自由な人間がこの家に世代ごとに出てるから、僕らの世代IKKOさんかなと思って。そういう意味じゃすごく嬉しくて。やっぱり身内だなというイメージはものすごくありましたね。応援したいという気持ちはあります。
祖父謹一さんは三男。広島から福岡へ行き、食料品を売る露天商。
大分から選炭婦としてやってきたケサヲさん(祖母)と出会い、結婚。
大正3年12月15日、炭鉱で大規模な爆発事故が発生し、取り残された600人以上が犠牲に。ケサヲさんの兄も含まれていた。遺族の一人として証言した本。「水や岩粉を撒いていれば、兄は死ななかった」
結婚後、食料品店を開く。角打ちをやっていた。
幸信さん(三男=のちのIKKOの父)
昭和19年、八幡工業学校に進学。卒業後、三菱化成工業に就職。3年後に退職し、上京。タオルメーカーの営業職に。出張がものすごく多く、激務に体を壊し、ふるさとに戻ることに。
高津家(母方)
昭和39年、方城炭鉱閉山。
町の人口は最盛期の半分に減少
美容院の売上も減り、仲卸の売上も落ち込む。幸信は家計を助けようと乳酸菌飲料の宅配もするように。
IIKO:親戚の一人から「(父の仕事は)日雇い」と言われた。そんなにみっともないことしてるのかなって...すごい嫌で。
仲卸の仕事も廃業に。電気料金の集金の仕事を始める。身寄りのない家に行った時に菩薩のように話しかけていた。
父の仕事が嫌だったんではなくってね、毎日何かをやってお金をもらう、日銭商売が悪いって言ってるんじゃないんですよ。定職がなくって、いろんな仕事を掛け持ちしながらやって、日銭を稼いでいくっていうのが、やっぱりあの言葉が、私は親戚からすごく蔑まれるようにね、言われたことが....なんでこんなに親戚からも言われなきゃいけないんだろう。また私の中にコンプレックスになっていくんですよ。
昭和37年、IKKO誕生。
父はプロ野球選手にさせたかったようだが、親子でキャッチボールをしていて球がIKKOの頭に当たり「二度としない!!」やめてしまった。ふたりの姉が代わりに相手になる。IKKOが好んだのは姉たちとの人形遊び。
IKKO:父のそばにいるのが嫌だったんです。本当に父とは馴染めなくって。私のトラウマっていくつかある。やっぱりひとつだったんだなって思いました。
小学校入学時から他の男の子とは違っていた。
IKKO:同級生にも好きな子がいるし、当時の担任の先生も大好きだったし...それは先生だから好きとかじゃなくて、やっぱり好きでしたね。男の人として。特に同級生を好きだった。自分の心の扉を開かなかった。
影が薄くていじめられてた。「男女」と言って
母の美容室に出入りし、ある時いとこの女の子を呼び出し新日本髪を見事に結ってみせた。
「女として生きたい」最初に打ち明けたのは長女。
40か41の時に、両親が新築のお祝いに来てくれたんですよ。もうここしかないなと思って、彼に会わせたんですよ。そしたら彼を見て、父がすごい怒り狂って。その時初めて彼に会わせたの。だけどそういうの全然平気なんです。私ちっちゃい時からはじかれものだから。慣れてるからいいんです。途中で分かったんだけど、私は炭鉱町に生まれて、炭鉱町は好きだけど、私にはあの気性の激しさはね血は流れてないんじゃないかと思ってた時期はあったの
今田耕司:流れてますやん(笑)
父は平成20年(2008)、肝細胞癌で死去。看護師さんに誇らしげにIKKOは自分の息子だと言っていた。葬儀には宅配や集金で訪れた家の人達が多く参列した。
「生前すごく優しくしてもらったから、私たちもお線香あげさせてもらっていい?」って。ああ、それが父が収めた成功だったんだなって。だから私も生き方を改めようと思ったんです。人の心に目に見えての成功じゃなくって、人の心の中に残る成功もいっぱいあるんだって。
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