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ザ・カセットテープ・ミュージック #9 沢田研二 日本ロックのレジェンド(抜粋)

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ス:日本ロックのレジェンド。日本最高齢のロックンローラーと言っても過言じゃない。
マ:ヴィジュアル系の元祖。
ス:すごく派手派手しい衣装を着て、メイクとかもした、
日本で初めての人と言っても過言じゃない。

スージー鈴木:以下「ス」、マキタスポーツ:以下「マ」で表記。

TOKIO(1980)

沢田研二プロジェクト

ス:ツッタカタッタ(笑)
マ:そんなのダメですよ。のりお師匠になっちゃう。

ス:「沢田研二プロジェクト」としていろんな若い才能が世に出ていく。
80年のレコード大賞編曲賞をとっている。「後藤次利ワークス」でもある。
マ:イントロ部分で遊んでますね。
ス:沢田研二津川雅彦の間に西川のりおがいる
ス:後藤次利は日本を代表するベーシスト。
日本で初めてチョッパーベース、今で言うスラップをやった人なんですね。
マ:ギターで「始まったぞ感」がある
ス:sus4 すごく爽やか、爽快な音。
マ:イントロでいっぱい多用されてね

ス:80年は「唇よ熱く君を語れ」「青い珊瑚礁」ミとファを使ったイントロが急に増えるんですよね。
ちょっと早かったんですよね。その先駆けとなったのがこの曲。
70年代に栄華を極めた沢田研二が80年代、30代に入るんですけど、
沢田研二ピンじゃなくて若い勢力を味方につけて、ミュージシャンがここから羽ばたいていく。
マ:そうですよね
ス:歌詞が糸井重里TOKIOが空を飛ぶっていうね、東京、欧米人は「キョウ」発音ができない。
トキオって言ったから。
マ:そういう別の視点で「TOKIO」ちょっとポストモダン的な。解釈としては

オフコース出演回やん。84年なら「渡り鳥はぐれ鳥」かな

晴れのちBLUE BOY(1983)

9.5万枚しか売れなかった

ス:この曲がシングル?!
マ:中1ぐらいなんすけど、いよいよだなと思いましたね。極まっちゃった感じがね。
沢田研二と我々がお茶の間で繋がってたのって、やっぱりラジオよりテレビだった。
どんどんどんどん毎回更新してくように、新しいイメージ、新しいゾーン。
ヴィジュアル面とか、衣装も楽しみにしてたし。音楽も、どんな曲やってくるんだろうって。
楽しみにしてたんですけど、メロディなくなっちゃったもんな(笑)
ちょっと前衛的すぎて、田舎の中1の僕にはついていけなかった。
アバンギャルドなんだけどジュリーがやることだからって大目に見てた。

ス:ベースだけで後はジャングルビート。言いたいことはヤシの実の中、どこなんだよ(笑)銀色夏生が書いた。なんといっても作曲大澤誉志幸、編曲大村雅朗。大と大のダイノジコンビ(笑)
マ:嫌なことを言いますが、陰りが出てきている。
ス:そうです。売上的にも10万行かなかったですからね。ある意味沢田研二プロジェクトは永久稼動しないシステム。大澤誉志幸自体がビッグネーム。沢田研二自身に価値が溜まっていかない感じはありましたね。大衆というよりは自分の好きなロックをやる。ただそこで沢田研二がバーストしなかったのは、70年代後半めっちゃ歌が上手くなったんですね。タイガース時代は歌がおぼつかなかったんですけど歌っていくうちに自力が出てきて、ボーカリストとしての実力があるから生き残った。

今の若い娘にはコミックソングに聞こえるのかw

高校生当時流行り始め、この曲もすんなり入ってきた。「そして僕は..」は翌年。
大澤誉志幸バージョン。
大沢誉志幸 / 晴れのちBlue Boy - YouTube

渚のラブレター(1981)

自作曲 キーが高い

マ:でも低いところがちゃんと艶やかに伸びやかに出て、さらにドーンと行く
ス:噂によると(いまなら~♪は)キーはDだったんですけど、Cで歌ったんですよ
間違えて歌ったら沢田研二は歌えたと。
マ:沢田研二の絶頂期なんですかね
ス:かもしれませんね。80年代後半は野太くなるんですよ。迫力にもなるんですけど、
70年代の細い、か細い声もまたよくって、ちょうどええ感じのね。ハーフ&ハーフ。

ななめの吉田類みたい

THE VANITY FACTORY(1980)

佐野元春を生み出した

ス:沢田研二プロジェクトは佐野元春を生み出したという逸話があって。スタジオに佐野元春がいて、仮歌を歌ったんですよ。感化された沢田研二佐野元春っぽい。沢田研二佐野元春が憑依してる。
マ:さらにパワフルで、若手独特の向こう見ずなところ。
レコーディングの時に「かましてやろう!」って気持ちが多分あった(笑)
ス:スタジオの中飛び跳ねて、すごいエネルギッシュなパフォーマンスしたらしいですね
マ:佐野さんには申し訳ないですけど、順序的には佐野さんを聞いたあとでジュリーを聴いてる。こっちのがしっくりきた。珍しい経験なんだよね。大体最初に見たものを親鳥って思うから

vanity factory 沢田研二 - YouTube


ス:沢田研二佐野元春の曲をたくさん歌ってるんですよ。「すべてはこの夜に」も。吉川晃司の。なんか流れがありますよね。佐野元春とか大沢誉志幸、あの辺が沢田研二系、吉川晃司系に行って。
マ:渡辺プロコミュニティが一応あってね

ジャストフィット(1982)

何やっても許してくれる...みたいな

ス:心もようとかの時代から、ちょっとタキシード着てデカダンス陽水に変わる瞬間。「いっそセレナーデ」84年なんですけど、沢田研二というプラットホームで試してみようと思ったんでしょうね。
マ:試し打ちっていうかさ、沢田研二さんて、何やっても許してくれる女優みたいだね(笑)シングルでは難しくてもアルバムの中では、ね。
ス:メッセージは割と無色透明なんですけど、加瀬邦彦とかがね「今度はこの服着せよう」「今度はこんなことやらせよう」ロカビリーやらせたり。プロデュースシステムに確固たるものがある。
マ:お馬さんとしての馬力がね、そもそもってはなしもやっぱある
沢田研二「ジャスト・フィット」を歌う - YouTube

いくつかの場面(1975)

この曲のために今日は来た(笑)

ス:ルールを逸脱してるけど、75年頃の。ハンカチ用意していいですか?実は沢田研二も泣くんです。歌詞に感極まって泣くのが録音されているんです。もともと彼はバンドマンで、解散したくなかったんですけど、諸般の事情で解散してしなきゃいけなくなったのが一点、それとPYG。時代がロックではなく商業主義で、ライブでやじ飛ばされたりモノ投げられたりした。歌詞に「やじと罵声の中で司会者に呼び戻された 苦い思い出のある街」とかね。「別れの夜に歌った寂しいあの歌」っていうのがあって、最後にバンドのメンバーに結集を呼びかけるんです。できるならもういちど 僕の周りに 集まってきて で感極まって...河島英五作詞作曲ですね。

- YouTube

いくつかの場面

いくつかの場面

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