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ファミリーヒストリー 山中伸弥 トランスミッター生産 ミシン部品

山中家/山中製作所

祖父・熊吉さん

大阪市北区新喜多町
明治38年大阪市立桜宮小学校卒業

海軍機間工業部員とは

私自身この表現は聞いたことないですね。ただ、海軍で機関っていったら、だいたいエンジンのことですよ。エンジンの担当者、いわゆるメカニカルな機械についてのエンジニア的な仕事をしていたというふうに考えることは大丈夫だと思います

大和ミュージアム館長・戸高一成さん)

山中製作所のトランスミッター

モーターの動力を、ミシンに伝える機械。電動ミシンの必要性が高まる。大量生産するには不可欠なもの。

当時のトランスミッターのほとんどは欧米からの輸入品。国産の生産に乗り出す

舶来品の駆逐には、現在国産ミシンの制作業者と同様に
難行中の難行であり、そこにまた
奮闘心も起こったわけです。

改良に取り組んだ結果、回転する金属同士の摩擦により、動力に無駄が生じていたことに気づく。接触部分を削り、油を含んだフェルトを入れ、スムーズにした

二割の動力節減に。実用新案登録、高額納税者、人望も厚かった。

ところが昭和16年、糖尿病のため46歳で亡くなる。
4ヶ月後太平洋戦争勃発、会社を引き継いだ妻、とめは自社商品を売り込むため、海軍省に行くなど、再建に奔走。

章三郎さん(熊吉の息子/伸弥の父)

「ぼんこ」と言われるほどのボンボン。可愛がられていた。手先が器用。現在の同志社大学理工学部を卒業後、実家の工場を手伝い須貝美奈子さんと知り合う

須貝家

美奈子さん(伸弥の母)

2017.6 86歳で死去

おじいちゃんおばあちゃんが別府の温泉でお土産の店をやっていたと、母方は九州出身で

実際、須貝家は兵庫県で暮らしていた。美奈子さんの父・信一さんは大阪で溶接工場を経営。順調だったが、太平洋戦争で焼失。
信一さんの弟が農場経営に誘ったので、家族全員で九州へ行く決断をする。美奈子さんは卒業まであと1年を残し退学。

十文字原で農業を始めたが、なかなか畑にならなかった※現在は自衛隊の演習所

大阪の親戚から「銀行の求人があるから、美奈子は戻ってこないか」連絡がある。家族に仕送りができると大阪へ向かい、昼は銀行、夜喫茶店でバイト。
夜遅いから銭湯のお湯が抜かれてて、少ししかない中入らなきゃいけなかった。

大分の家族の開梱した土地は進駐軍へ持って行かれてしまう。別府・鉄輪温泉に移住。土産用の菓子の製造販売を始める

大阪に行った美奈子さんは、友達に誘われていった集まりで章三郎さんと知り合う。

ふたりが付き合い始めた頃、山中製作所の経営が苦しくなるが、美奈子さんは意に介さず。

昭和30年、結婚

章三郎さん24歳、美奈子さん23歳

美奈子さんの妹が高3で退学すると聞かされ、それまでの貯金をすべて実家に送った。

山中製作所も深刻な危機に。母とめがなくなり、章三郎が引き継いだもののやがて工場をたたむ決意をした。

岡山に移住。かつて取引のあったミシン製造会社で部品製造の仕事を始める

三つ巻き押さえ※布の端を折り返し、三重にして縫うための部品。
章三郎さんは布が入る部分を開閉式にし、入れやすくした

昭和35年、大阪に戻り、夫婦で会社を立ち上げる。ルーパーに力を入れる※高速で糸をすくう重要な部品

事業を拡大しようと本格的に乗り出すが、増える注文に人手不足になった。ふるさとに帰った社員・岩切さんのいる鹿児島に向かい、ここで部品を造って大阪に送ってくれないかと頭を下げた。

助けてくれた岩切さんにできるだけ仕事を回すようにした。その後、章三郎さんは糖尿病で入院。入院中も仕事のことばかり考えていた。昭和63年、章三郎さんは58歳で死去。
会社は美奈子さんが引き継いだ。

いっぺんに1万台つくるけれども、そのミシンにはそれ1台に1個しかつかんからね。絶対に気を緩めることなくきちんと作ってそれを頭に入れてくださいね。

友情2 平尾誠二を忘れない

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