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【メモ】ファミリーヒストリー 設楽統 バナナマン 秩父銘仙

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祖父・逸三郎さん

織物業で成功した地元の盟主。
明治18年生まれ。家計が苦しく進学を諦めていたが、入間郡立染色講習所の1期生に。
化学染料を使った最新技術を学ぶ。秩父銘仙の販路拡大を目指した。
大正3年、第一次世界大戦勃発。
化学染料のほとんどをドイツに頼っていたが、敵国となり、特に黒が不足してしまう。
奄美大島黒神村で生まれた逸三郎は以前より大島紬の研究をしていた。
シャリンバイは大島の自生林。幹にタンニンが多く含まれていることに着目するも
よそ者なので多く伐採はできず、チンギという木を見つける。

地元秩父に工場を建てる。
第二次世界大戦。工場は軍需工場に。戦後再建することはなかった。

母方の曽祖父・江頭金一郎さん

明治8年生まれ。現在の県立佐賀西高校卒業。
入間郡立染色講習所の初代所長として赴任。逸三郎さんとは師弟関係に。
佐賀市で染物屋を営んでいた。(柳町長崎街道沿い)皇太子に道案内をした。

昭和11年、泰久さん(統の父)誕生。

埼玉県立川越工業高校紡織下卒。
社会人になる前に父・逸三郎さんを久留米旅行に誘う。
恩師金一郎の自宅へ(7年前、76歳で亡くなったが、遠方なので葬儀に行けなかった)
金一郎さんには三人の孫娘がいた。
次女は「老けたお兄さんだなと。この人は子供心に姉と結婚するのでは」と思った。

昭和39年、長女と16歳になった三女・照子さんは秩父旅行に。
5年ぶりに再会した泰久は手紙を書いた。

当初、遠方だからと結婚を反対されていたが、逸三郎さんが仲を取り持つ。

昭和41年結婚。2年後逸三郎さん死去。

昭和48年、設楽統さん誕生。

泰久さんはホテル支配人を経て秩父ミューズパーク総支配人に。コテージ運営に携わる。

父親の、ちょっとした文章に人柄がうかがえるというか、より近く感じましたね。
なんかあったかい気持ちになりましたね
「俺は一人で生きてる」みたいな感覚が若い頃ちょっと強かったりとか
「やりたいことやってるんだ」」とか思ってるけど
実際は割とそんなことなくて。
僕の両親がいなかったら僕は生まれていないわけですし。
僕も今結婚して子供がいますし。すごいですね。繋いでいってるというか。

泰久さんは、結婚までの2年間に50通の手紙を照子さんに送っている。
平成10年、62歳で脳梗塞に倒れ、左半身不随。15年間の闘病生活。
最後は話すこともままならなかったが手紙は書き続けた。
平成22年、77歳で死去。

これ相方のファミリーヒストリーは・・ない??
芸人さんだと宮川大輔出川哲朗又吉直樹、今回の設楽統で4人目かな。まだいた?