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人生が二度あれば 運命の選択 中田英寿 大野倫 宮本寛 青山敏弘 杉浦正則 現在

中田英寿

29歳で引退

前園真聖:確執はないと思いますね。泥臭く、自分のスタイルを捨ててまでチームのためにプレーするのが彼の本当の姿。最後の引退するドイツW杯も3試合フル出場していますので怪我が要因というのも考えられない

ジーコ:サッカー選手の生活に疲れてしまったんだと思うんだ。現役中は食事制限はもちろん、プライベートでも多くの制限に縛られる

中田英寿×又吉直樹

中田:体型は 崩そうと思わなければ 崩れない
又吉:いやっ、普通崩れるんですよ
中田:僕の前には三浦知良という人間が50歳でまだ走ってますから。それを見ると「自分も頑張らなきゃ」いつも思います
又吉:サッカーやってた時からいろんなことに興味があったんですか?
中田:昔からいろんなことに興味があって、中学生の頃からなんだけど特にスポーツやってると「○○バカ」とか言われる。それがすっごい嫌いで。スポーツもできて勉強もできた嫌な奴になりたい。昔からカッコつける気持ちはすごい強くてでも当然 一番の興味はサッカーだったんだけども。98年は、とにかく好きに遊んでやってればいい、あの時が一番楽しかった。でも2006年になれば、年齢も一番上になってるし周りの目線が「お前少しまとめた方がいいんじゃないか」みたいな。まとめるのは僕の性格に合わない

又吉:引退会見という形じゃなくて、ブログで(HP)発表されましたよね
中田:引退会見する人って、逆にそんなにいるの?ヨーロッパで引退会見て見たことある?
又吉:相撲とかではよくありますけど
中田:それ海外じゃないじゃん(笑)その時点で海外じゃねえだろ(笑)
又吉:怪我が原因ではないんですか
中田:あの時は治ってたし、肉体的にどうこうってのはなく
又吉:なぜ引退を決めたんですか
中田:なんだろな、その..自分がサッカーをやってて、好きでやってるわけで好きの部分が楽しめなくて、うーんって時期が長く続いてて。だったら一旦休んだほうがいいなと思って。もしかしたら何年後かに戻る可能性だってあったわけだし
又吉:もしかしたら時間置いたらまたやりたくなってきて「サッカーやっぱり楽しいからまたやろう」なるかもしれないと
中田:うん
又吉:もし人生が二度あって、あの時に戻れたら現役続行と引退、どちらを選択しますか?
中田:いや...自分は、やっぱり自分の生き方や考え方を..自分が自分を尊重してあげないと良くないし、29歳になってやっぱりサッカーじゃない。それ(引退)は、変わらないと思いますね
又吉:いきなり環境を変えるのは勇気がいった
中田:勇気じゃない、覚悟。何に対しても責任を持って、だからこそ自由があってでもその分、より楽しめる
又吉:勝手に孤高ってイメージを持ってたんですけど
中田:仲悪くないから別に!みんなと仲いいから!(笑)僕人好きだから。しゃべるのすきでしょ?場を盛り上げるの好きだし。

疲労骨折のまま甲子園で6試合

三浦大輔:別世界ですよ。すごいなって思って見てた。140キロを超えるピッチャーって、当時高校生ではいない
上原晃:裁監督は甲子園で優勝するのが目的。沖縄から初めて優勝するという強い気持ちはあった。やっぱり僕たちが成し遂げられなかったことを。倫というピッチャーと甲子園で優勝するというのは、あったと思います
屋良豪太:痛いなんて一言も言ったことはないんじゃないですか。栽先生と僕ら、沖縄を背負っていたんじゃないかな

※うわなつかし~。手元に「輝け甲子園の星」(1985)「泣くな上原!君には未来がある」..1年生で甲子園リリーフやってん

「後ろをむいて座り込んで泣いている奴がいるか!お前には次がある!ちゃんとしろ!」の裁監督の声に、やっと自分を取り戻し立ち上がって「マウンドに上がるからには悔いのないようにしようと思っていました、でも」と言ったまま、あとは言葉にならない。

上原さんは中日-広島-ヤクルト。引退後は整体師。栽弘義監督は2007年没。

沖縄水産元監督・栽弘義の破天荒な生きざま | 日刊SPA!

大野倫九州共立大-95年ドラフト5位で巨人へ
1995年ドラフト会議(読売ジャイアンツ)
95年といえば逆指名制度の頃
1995年(平成7年)ドラフト会議

「いつか監督を殺したい」記事

橋下:当時はセンセーショナルでしたね。非常に気になりますね。僕だったら肘を壊したとか、自分の夢、人生を台無しになったというのであれば投げてないでしょうね。ここ(沖縄水産高校)にくると昔を思い出す?
大野:手に汗が出てきたり、やっぱり背筋が伸びますね
橋下:肘の怪我のことを、裁監督に相談されたんですか?
大野:あの、相談することができなかったって言ったほうが..僕の一つ上が、沖縄で初めて決勝に進んで、本当に期待される
橋下:絶対優勝と
大野:そうです。エースナンバー背負ってますし、肘が痛いと絶対監督に言えない。やはり本土に対するコンプレックスがものすごくあってですね。当時本土の方々と対峙して戦う、沖縄の心だったんです。
橋下:本土って言い方をすると、沖縄の人に対し失礼ですが、敢えて本土という言い方をさせてもらうと、第二次世界大戦時、沖縄で(本土がやられることを)引き延そうとこのことは本土ではあまり教育されてないので、沖縄の人たちの心情が理解しきれてないんですよ
大野:沖縄の人間しか知りえないことなので。なぜかしら(当時は)戦争・沖縄・高校野球が繋がっていたんですね。

橋下:大野さんが「裁監督を殺したい」と(いう記事が出て)
大野:事実無根。厳しい言葉、厳しい仕打ちを受けたんですが裁先生を信頼していた。

橋下:将来のことを考えるじゃないですか
大野:今でも時々思います。あの時、もし自分が怪我をしなかったらもしかしたら、桑田さん槙原さんと並んでマウンドに立てたのかな。想像はしますけどね。
橋下:もし人生が二度あってね、25年前の甲子園に戻れるとしたら、マウンドで投げることを断りますか?投げ続けますか?
大野:難しい答えなんですけど、でもやっぱり僕は上がりますね。自分のためよりもやっぱりいろんな思いを背負って
橋下:もし本土で野球やってて、沖縄県民の特別な思いを受けていなければ?
大野:あ~なるほど...この質問、ハッときました。もし沖縄でなかったら僕は投げきれなかった。マウンドに上がる気力はなかったと思う。沖縄県民だからこそやれたこと。

   
1993~甲子園投手の肩肘検査が義務化

大野さんは現在、出身大学の沖縄事務所所長&ボーイズリーグ(うるま東ボーイズ)の監督。13歳、8歳の息子も野球をやっている。

ほかにも

誤審で全国大会出場

シュートを放ったのは青山敏弘(作陽-サンフレッチェ広島。ブラジルW杯出場)監督が続けろと言ったのでなぜなのかとずっと思いながら。もうゲームをしたくなかったですね。あの瞬間。
野村雅之(作陽高監督):怪我で脳震盪の選手がいて。ベンチ見ながらピッチを見てたので、絶対に入ったという確信は持てなかった。キーパーがカウンターを狙ってロングキックをしたんですね。1回笛が鳴って止まるまで続けようと。誤審は覆らず、出場するのかどうか水島工選手内でも意見が分かれた。多数決で決めようとした時、GK宮本さんは風邪で欠席。5対5の結果に。出場派はゴールから離れていた攻撃陣。宮本さんが電話で出場の意思を伝えたがチーム内はバラバラに。

宮本寛さんはその後、高校でサッカーをやめた。倉敷で害虫駆除の会社を立ち上げた。

いろんな事も言われましたし、書かれました。高校生ながら響く部分がありました。正直言いますと、シュートの回転が速すぎて振り返る余裕もなかった。倒れたらそこにボールがあったんで、それを飛びつく。入ってるというイメージが全くなかった。今でも覚えてるんですけど、シュートの音がビューンと聞こえるぐらいスゴイ。手にも当たってたんで角度が変わってポストに当たったのかなと

3年間ずっと全国のためにやってきて、出たいなと。僕は行きたいと。幼稚園から始めたサッカーなのであの時は出たいなと思いました。

ヒロミ:もし人生が二度あるならどちらにします?
宮本:そうですね...辞退すると思います。大人になってわかる。先生、親御さんがた、学校の方々、すごい苦労なさったんだなと、大人になってすごい感じましたね。全国大会に行ってよかったと当時は思いましたが、今思えば考える節は正直ありますね。すごいことやらかしたんだなって

ヒロミ:やらかしてないって!(笑)

大野倫以降ずっと泣けてしまって、この宮本さんのが一番くるものがあり。かりゆしとか青春の輝きなんて、ほんまずるい選曲。


かりゆし58「嗚呼、人生が二度あれば」<歌詞付き>

青山:あのシュートを触ったんですよ。自分の中では完璧なコース。触ったからこそ跳ね返ってきたのをがむしゃらに飛びついたんだろうな。個人的には気持ちが分かって。
当時あった支柱は現在取り払われ、ゴールしたボールは跳ね返ってこなくなった。

10年後、水島工と作陽高は再試合。すごい天気の中でやったんだな。1対1のまま試合終了。PK戦はなし。

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人生が二度あれば
「休まず骨折をして出続けたと思います。うちの金本監督のように全試合にこだわって。なんでそこで弱さを見せたんだって、今感じてる。弱い掛布は目を覚まさない」

若乃花×長島三奈

花田虎上:コンビニで「貴乃花さんですか?」って聞かれるとちょっとカチンとくる。違うし。父に相談して「2年間外の世界を見させてくれたら相撲界に残ることを考えたい」相撲だけでなく他の世界も見ないといけないと思って。一度相撲界を出た者は戻る事ができない。長嶋監督を目指した。いろいろなスポーツの世界に行ったのを私自身見ていた。特に覚えていたのがアメフト。長嶋さんが肋骨何本か折ったのを見ていて、色々な世界を見るのがいいなって

長島三奈:うちの父、手を出しすぎですよね
花田:いろんな人生を見ていたら手を出すことは怖くないですから
長島:あの頃に戻れるなら、別の世界に行きますか?それとも相撲界で生きていきますか?
花田:僕はもう、申し訳ないですけど別の世界に行きます。いまも先の見えない恐怖心はありますけど、この道で間違いないと思ってます。 
長島:お父さんが「戻れるように何とかするから」とおっしゃったら?
花田:残っていたんじゃないですかね

杉浦正則

プロ10球団もメジャーの誘いも拒否

マチュア野球にこだわり続けた
母:野球って故障すればそれまで。プロに入って欲しいと言ったことはない
父も勉強しないなら野球はやめろと言い続けた。プロ入りするにはギリギリの年齢だった(当時28歳)破格の提示を受けてもプロ入りせず。(白紙の小切手を提示された)

オリンピックになるとまたメダルが欲しくなる場所。キューバを大舞台で破って金メダルが取れたら最高だと思った。

人生が二度あれば
今だったらプロに行ってます。プロがオリンピックに参加するとなってれば。海外の選手とやるのが楽しみだったので。韓国戦で敗れた時の、泣き顔の写真を大事に持っている。「今後の人生もっと頑張れ」