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Eテレ SWITCH インタビュー 達人達 辰巳芳子×川瀬敏郎 いのちの食、こころの花(抜粋)

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いのちのスープ

にんじんは厚さ5ミリのいちょう切り。セロリは3ミリの小口切り。厚手の鍋に、薄切りにした玉ねぎとオリーブオイルを入れ、火にかける。火加減は10段階の3ぐらい。時々蓋をしては蒸らし、時々かき混ぜながら炒める。

映画『天のしずく 辰巳芳子"いのちのスープ"』予告編 - YouTube

食は生死を分かつということを時々思い出してちょうだい。そして、築き上げていくものなんですよ。食材を選ぶ それをどう調理するか、どう食べていくかってことは、本当の気づきだからね。/b>
辰巳芳子 - Wikipedia

辰巳:一番「これは真似しようがないな」と思ったのは、いろんなソースの中に端っ切れが入ってるの。対極にあるのはかつおぶし。一番平凡なトマトソースも、ちょっと生ハムの切れっ端を入れると違うの。生ハムを切った脂とかありますわ。それをじくじくじくじく、弱い火でもって脂をはかせて繊維だけにして、ピッツァの上にまいて。何一つ無駄にしないように食べる。民族が生き抜いていくために必要な気づきなのね。2000年これに頼って生き続けてきた、民族の甲斐性。なんとなくわかって作るのと、そうじゃないのとは違いますね。けんちん汁の始まりはミネストローネ。行き詰まりは異文化で洗うと突破口がみつかりやすい。日本人が考えることを途中でやめるのはなぜか。公に申し上げることでもないのだけど、日本のありがたい四季を、ありがた過ぎてるんじゃないか。春なら春を見て自分の命との関係を求めるわけ。その結論に至るまで、春は続かない。しつこく考えていく前に、結論に至るまでに変わってってしまう。

母・浜子さんは60年代~70年代にかけ「きょうの料理」出演。(77年、72歳で没)
※余談だが、うちの母世代だと陳建一(息子)より陳建民(父)。辰巳芳子(娘)より辰巳浜子(母)の「きょうの料理」が馴染み深い。とはいえ、娘の芳子さんはもう90歳。

辰巳:体が思うように動かなくなると、必要なものだけで体を使っていこうとするんですよ。年取って、いいかなと思うようなことはそういうことでしょうか。余り年のことは考えないで、今日まで来てしまいましたけど、体の力や何かが抜けてきた時に、抜けた状態で表現できること。自然にそういうことになるからね。結局「力」というものにはどうしても「我」がある。力が抜けてくると自然に我も抜けてくる。必要最小限、必要なことはただ一つということはあるでしょうね。それでやるよりほか仕方ない。
川瀬:力が抜けるからこそ自由になれるんですね。世阿弥の「稽古は強かれ」「物数を尽くす」非常に大切にされてると聞きますけど、やはり花でも物数を尽くさないと。
辰巳:練習を「物数を尽くす」という表現で言ってくださった先祖がいたのはすごいですね。
川瀬:先生は、最も大事になさっていることはどんなことですか?
辰巳:そうねえ・・ものに従っていく。(ものが)「こうしてほしい」ということに従っていくということしかございませんね。
川瀬:下地も大事ですね。
辰巳:ある種経験も必要で。ものの扱いも教わりますから。皮一つ剥くのも、手首が備わっていないと向こうの注文に応えられませんものね。
川瀬:何度も何度もやらない限り、こころの胸に落とすことはできません。すきなことだけやってたら、同好会みたいになってしまう。

最も嫌いなことを好きになって初めて、本当の「好きという心」かもしれない。苦手なことを我がものにして、初めて本当の「好き」になる。

川瀬敏郎さんと「こころの花」

花にはいろんな人の思いが全部集まる。救済事業みたいなもの。全てのものを祝福し、使い切らないといけない。

辰巳:川瀬先生も、花の命と一つになって生きていらした。私もものの世界とひとつになって、自然に一つになることを覚えたというか。だから、お話相手としてはとっても喜ぶべき 

川瀬:(枯れたヤブミョウガに対し)いのちの姿を眺めている。こういうものを汚いと思う人もいると同時に壮絶な、終わろうとする姿の美しさだとご覧になる人もいらっしゃる。
辰巳:ヤブミョウガの葉っぱってね、元気な時は一種の邪魔者みたいだけどね...
川瀬:不思議なことにね、平凡だと思う花は案外すがれた時にその本性を表す。私もヤブミョウガはそんなにいけたい花じゃないですけど独特の魅力があるわけですね。枯れちゃうと。一見みずぼらしく見えるようなものをいけることによって、美しいものになる。それが心の花の文化。

辰巳:先生がいけられるところをみられるなんてなんという幸運でございましょう。  

川瀬:人間が救う、拾い上げることによって生かされている。その連続ですね。露打ちすることによって、血を、生きたものを通わせる。花は生(なま)ですので、死と再生を繰り返しながら 何度も何度も毎年咲いていくが毎年同じものは二つとない。切るということ自体、罪なこと。変な話ですけど、見事に殺しきらない限り、真実には至らない。 パラドックス。中途半端、ほどほどの命であったらかえって生きない。抽出できない。人間が賭けていないと。覚悟をつけて。
辰巳:たくあん一つでも、切り方ひとつで生かしたり殺したりしてしまうからね。
川瀬:花もそれは同じですね。
   

※すがれる【尽れる・木枯れる】
盛りが過ぎて衰える。
草木の葉先や梢が、冬が近づいて枯れ始める。(広辞苑)

「いける」「いのち」「こころ」

川瀬:「いける」という言い方をしてまで、花を捉えた民族はそういるわけじゃない。
辰巳:「いける」って「活ける」という字を書きますか?
川瀬:一般的に私は、ひらがなで書きます。「活」も含め「生」もありとあらゆるものを包括して「いける」
辰巳:不思議なんですね。いのちっていうのはね。漢字で「生命」と書きますね。生物学的な、命なんですね。でもひらがなで「いのち」と書くと実像としての「いのち」になる。
川瀬:「こころ」も同じ。漢字で「心」と書いてしまうと観念的に思ってしまう。スッと入ってこない。

草木国土悉皆成仏
(そうもくこくどしっかいじょうぶつ
草木、国土にも物性があり成仏するという思想)日本ではじめて、こころの部分を花に見出してきたから、こころの自然なんです。本場のインドは、花はこころのものとして草木とか入ってない。われわれが「いける」のは心の肖像、魂の肖像を1本の花から見出して生かしていく。

花をいける。最終的には本当に自由に生きたいために行なっている。自由は「無」という言葉であっても構わない。真言 真実。本当の自分になっていく道は、自由な道なんです。

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