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人生案内メモ、文字起こし、感想。

SWITCHインタビュー達人達 佐野元春 X 吉増剛造 往復書簡、詩を読む愉しみ。

出会い

佐野元春2500字インタビュー

吉増さんはインタビューを読んで感銘を受け、手紙を書いた。

めざしていますのは、言語の奥底の恐るべき韻律。
時に言語を超えてまでの、恐るべきもの。
それを歌とは言いあらわしておりますが、佐野さんも、おそらくメカスも、そこを目指して苦戦しているはずなのです。
ここまで綴れましたのなら、もはや、なにかの実現は必要はないのかもしれないのです。

吉益さんへ

読んだ元春さんはなんどもなんども読み返し、返事を書いた

吉増さんの詩は、ビートだと思う。どの詩にも打ちひしがれた至福が息づいている。

表現は難解ですが、僕の中で立ち上がってくるイメージは明快です。

吉増さんとは世代が違う。世代が違えば、見たり聞いたりしたものも違う。
しかし今回お会いするにあたって、そのような世代的な体験を超えて、吉増さんの詩人としての内なる魂に少しでも触れていたい。

コロナ禍のライブ

研ぎ澄まされる危機感

元春:やってみると、意外とやりやすかったです。観客からの熱いレスポンスがないぶん、自分のペースで自分の身体表現を進めていくことができる。条件がつけられると、本質が現れてくるといいますか。我々表現する者にとって、世の中の一大事こそ、なにか一大事が起こったから反応するというのではなく、ふだんから、ある種の危機感を持って表現を続ける。ですので、コロナ禍において、ライブパフォーマンスができない、そうすると巣篭もりをして、特別に身構えた中で作曲をしようというより、むしろ淡々と曲を紡ぐ。逆にそのような気持ちになります

吉増:とても大事なキーワードだと思って内心驚いたんですけど、危機感とおっしゃいましたよね。ぼくは「非常に」という言葉を使いますけども危機感、危機を常に感じつつ、真剣さもある。その危機感が研ぎ澄まされてくるんじゃないですか。

元春:そうだと思います

創作の変遷

吉増:こんなことをお尋ねしてもいいかどうか迷いながらですけど、特にこの10数年やってらっしゃる「コヨーテ・バンド」集中的にお聴きしてると、ギター2本とベースとドラムス、ピアノですか。彼ら佐野さんの後ろから時々ボーカルとして入ってくる。あの微妙な表現の層が危機感を持っている、緊張感を持ってる時ってあるんじゃないか。

元春:コヨーテバンド一人ひとりもミュージシャンですから、いざバンドで一緒にやろうとすると、まず自分の言葉、佐野元春のリリックの歌声を聞いて、それに楽器でどう反応しようか。このような現象が起こるわけですね。それまでは曲が先で、それに言葉が追随していく曲のつくり方をしていたんですが、コヨーテバンドとやるようになって、まず言葉が先で、そこにビートとメロディーが追随していく。初期の自分のライティングスタイルとは真逆の形。

黄金詩篇、疾走詩編

高校の時「黄金詩篇」に出会ったが、難解な表現に頭を抱えた。

前衛的なので、言葉の韻律に焦点を絞って、心の中で読むのではなく語ってみたんですね。そうすると驚くことに非常に音楽的な発見があったんです。節が後半に行くにしたがって、ビルドアップして大きなダイナミズムを生み出していく。心の中で朗読することによって得られた詩を読む愉しみ。詩の中にはビートがあり、僕流で許していただけるならば、ロックンロールがそこにあった。朗読することによって巻き込まれていく感じ。得られた経験でした。正直に言いたい。

吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)

吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)

アメリカのビート文学

アレン・ギンズバーグ/翻訳・諏訪優

吉増:俳句や短歌や小説のようなものではなく、無限に続く不定形の巨大な海のうねりに遭遇した精神。おそらく佐野さんも含めて、ビートという宰領(さいりょう=案内人、リードする人)なんですね。ぼくらも含めて。

諏訪優...アレン・ギンズバーグ「HOWL(吠える)」翻訳。日本にビート文学を広めた。元春との交流は80年代~

オン・ザ・ロード

元春:同時に自分の心を捉えたのは、ジャック・ケルワック「オン・ザ・ロード」ですね。最初日本語に訳されたものを読んでみたんですね。ところが、小説というよりかは散文詩に近かったために、原文を読むべきかなと。英語で読んでみたんですね。もうまさに韻の嵐。散文詩といいますか、散文のあり方に興味を持ったきっかけとなったのがオン・ザ・ロードですね。先生の方にもお渡ししましたけど、エーテルですね。あの散文詩を書き始めたと

エーテルの月はダイヤモンドに溶けて」より「あぁ、どうしてラブソングは...」朗読

詩が世界に果たす力

詩を書く事への根源的な問い

元春:現代において、詩は、人類の危機に直面した現実を、その表現をもって打ち克つ、または乗り越えることはできるのか。詩というのはそうした力を持ち得ているのか、先生のお考えを聞かせていただけたら

吉増:これまでにあった、日本の場合ですと短歌、和歌、俳句、小説、あらゆる芸道を含めてかたちあるものはもう滅びたことにしないといけない。そういうものに自分の魂を傾けるわけにはいかないと決断して、ヘボ道でもいい、それから読者がいなくてもいい、聞き手がいなくてもいい。しかしその表現の未知の大陸に向かって歩みだそう。かたちのないもの、途方もない表現の大陸がある。ふつうアメリカといわれるのはこの大陸のことかもしれない。ひとが生きて行っていい、大きな大きなかたちにならない未完成のと言っていい、これがゲンズバーグのハウツー。ビートが与えてくれた根幹。
わたしのしようとしたことは、かたちあるものをまったく拒絶、拒否して、取り残してきたような亀裂、空白、沈黙とかに目を向ける。その中で大変な苦労をしなきゃいけないけど、何とかして提示しないといけない。考えで終わってしまうかもしれないけど。わたしの50年60年の貧しい道でした、しかも読者も全くいない、わからなくていいという。

印刷文化、あるいはジャーナリズム文化でないような、さらに深い未知の声の根源があるかもしれない。そういうものをときたま命綱のようにして見つけながら、それをお話していく。昨日今日のお話は一つの例ですけど。

詩が降りてくるとき

ミルフィーユのように

元春:ここは非常に難しいですね。自分のそばにいる大事な人が語ったひとことであったり。自分の詩が時事性を見ることがあるんですけど、自分が試みているのは三分か四分、限られた時間の中で気の利いた表現を人々に出さなければいけない。ひとつ非常に単純なイメージが降りてきたとしても、それをそのまま詞としていくのではなく、いくつかの全く文脈の違ったイメージが三層にも四層にも五層にも。お菓子で言いますとミルフィーユのようにパイ生地が幾重にも重なる格好。まるで文脈のないイメージが幾層にも重なり、しかし最終的にはどんな人にも受け取ってもれるような、おいしい形をしたミルフィーユ・パイとして仕上げる。あとは聞き手の皆さんの経験や、感覚によって、どう解釈してもらってもいいです。このミルフィーユの三層目でもいいし、五層目に反応していただいてもいい。自分が書く詞、歌の中の詞というのは、決して完結するわけではなく、聞き手に頼る。非常に卑怯な言い方かも知れないですが、聞き手の経験とコラボレーションする、共同作業をすることによって自分の詞がどこかその先に成り立っている。このような気持ち、やり方ですね。

吉増:非常にユニークな、佐野さんならではのその時その時の曲に向けたラブコールのような。これ自体が詩のような、ねえ。たった今気がつきました。階層の中で「コヨーテ、海へ」たった二行なんですね。ミルフィーユから外れた刃(やいば)のかがやきに入ってる。ねぇ。

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