影山ヒロノブ
レイジー解散
森:レイジーって何年に解散したの?
影山:81年の5月31日です
森:てことは、実際には4年ぐらいってこと?
影山:4年ですね。解散の1年ぐらい前から、解散に向かっていろんなものがもう動き出してたんです。僕は、なんか一人でやんなきゃみたいな気持ちになっちゃってたんですね。僕、曲とかも全然作れなかった
森:レイジーの時は
影山;はい。なのにロッド・スチュワートとか、その当時の自分のアイドルがいて、そういう風に自分もひとりでやってみたいなというのがすごくあったんですね。じゃどんな曲歌いたいんだよというと、自分では書けなかったんで当時のスタッフに、上手くそれを伝えられなかったんですよね。
森:逆に言うと、きっとそこから影さんが始まるんだよね。生まれなきゃいけないから、多分苦しかったんだと思う。
過酷なライブツアー~バイト
影山:そっから5年間ぐらいは、多いところで150本ぐらい、楽器車でバンドと一緒に小さなライブハウスツアーをやりまくりました
森:レイジーはアイドルという形でみんなが受け止めてたから。普通のバンドは1台の車で全国回ったりして
影山:僕を引き受けてくれたバースデーソングの山岸さんの、ロックミュージシャンに対するポリシーが「影山!お前ライブで勝たな、ロックちゃうで!そんなんクソほどやらなあかんわ!」言われて。11月だったの覚えてるんですけど、毎日やりながら縦断しようということになって。初日鹿児島、30日は北海道。毎日やってると、東京にたどり着いた頃って全然声出てないどころかしゃべりもできない。でも津軽海峡わたって函館に着く頃にはだんだん復活してくるんですよね。乗り越えた頃に自分で気づいたんですけど、声が太くなってた。出なくなってからがホンマもんや(笑)
森:負荷がかかって強くなるっていうのは非科学的だけど、そういった気持ちはみんなあるよね
影山:エッグマンでお世話になる頃には、自分が何が足りないかとか、完全に分かってて。やっぱり自分の言葉で自分の思ってることをのせて、ぶつけるのがロックじゃん。自分の好きなサウンドを仲間のミュージシャンと作り上げる気持ちにやっとなって、試行錯誤しながらめっちゃ進めていったんですね。音楽に対する情熱はめっちゃ残ってて、燃えてるんだけど一気に飯が食えなくなりました。バイトやってて、ビルの外壁を塗りつける、めっちゃきついバイト。
森:そのタイミングでラウドネスとかは活躍してた
影山:すごかったです。あいつらはスターダムを一気に駆け上がって。日本通りこして「THUNDER IN THE EAST」ってアルバムを世界でリリースするときは多分ビルボード50位行くぐらいまで登ってて。横目で見ながらめっちゃパネル運んでましたからね(笑)
森:想像以上にいろんな思いがあったと思うけど、でもそれも時が経てば、影さんを作ってる大きなパワーなんだと思うけど
影山:そうですね。どんなことがあっても、俺はこういうふうになっちゃったけど、あいつらがどんなふうになっても羨んだり妬んだりするのはやめようと誓いましたね
アニソンとの出会い
電撃戦隊チェンジマン
森:どんなにライブハウスでやってても食ってけない時代があって、そのあとにアニメソングと出会ったの
影山:はい。一番最初が「電撃戦隊チェンジマン」主題歌を。コロンビアの木村さんってディレクターから「その昔レイジーだったこととかは全然興味ない。ただ、影山さんの声を耳にしたんだけど、そろそろ戦隊ものもロックエッセンスが欲しいので是非お願いしたい」ちょっとまあ、自分も舐めてた部分もあったんですけど。子供向きっていうところでね。ガツーンとかまして決めてくるぜって1回歌った時にめっちゃ怒られました。「永ちゃんじゃねえんだから、日本語をね、そんな風にこねくり回したら子供たちの心に絶対届かねえ。もっと真っ直ぐに日本語で歌えよ」努力したんですけど、そうするとノリが悪くなってしまって。その日何時間も歌ってはダメを繰り返し。最後歌わなくていいから歌詞を読んでみろと言われて。読んだんですけど全然ダメだって。明日もう1回やるから、家で練習してきてくれと。まあ、かなりクセ強かった。それがアニソンの始まり。
CHA-LA HEAD-CHA-LA
ブラジルのファンは1番を日本語で歌える(2番は無理らしい)
CHA-LA HEAD CHA-LA - Dragonball Z (Opening Theme) [OST Full]
影山:言葉、音、映像がひとつになった時の、1+1+1=無限大。子供達がワクワクして興奮しないとダメじゃないですか
森:時代的に影さんの声、みんながやっぱり求めてたんだと思うなあ/人間としてのタフさもあるな。
影山:人生の座右の銘につながる一言「覚えとけよ、チームのリーダーが元気ささえ失わなければ7割ぐらいのことは成功する」生きてりゃいろいろなことあるじゃないですか、めげそうになったり。元気さえ失わなければ成功するチャンスがあると言い聞かせてます
森:洋楽のロックが入ればドラゴンボールじゃないし、悟空じゃない。影さんが歌うのがわかってたから、普通の英語じゃないなと
影山:斬新だった
森:ライムでしょ。韻を踏む。チャラ、ヘッチャラ。悩みをチャラにしようという意味も
影さんは2021年還暦。石橋貴明とか石野真子、松原のぶえあたりと同い年だな。
森雪之丞
作詞への思い
影山:なんで作詞家になったんですか
森:自分の気持ちを日本の言葉でどう表現するか。僕はデビッド・ボウイに影響受けてるんだけど、初来日見てるから。ライブは予定調和じゃない、自分の中の獰猛な気持ちを吐き出すみたいな、言葉にならない自分の気持ちをどう言葉にするか。それに向かい合った時に自分の中の扉がひとつ開いたんだろうね。影さんて、歌詞カード見ながら音楽聴いた?
影山:いや、まず聴きますね
森:僕はシワにならないように開いて、詞を見ながら(笑)作詞家は歌い手に託す。いかに言葉上のフレーズとして深い意味があっても、アーティストに託した時にアーテイストの言葉にならないこともある。あるメロディーの中に言葉が入って、あるシンガーが歌ったら、僕の言葉が5倍にも10倍にもなることがある。それが言葉だけじゃなくて、音楽の中の歌詞の魅力。書いてるうちにロック魂があふれてきて、シブがき隊に書いた時に「アイドル作詞用語辞典」があったとしたらそこに絶対載ってない言葉を探そうと。デビュー曲「NAI NAI 16」ジタバタするなよ、世紀末が来るぜ(笑)絶対アイドルの用語に世紀末はなかったし。100%..soかもね!も、お前深い意味はあるのか(笑)メロディに乗った時に独特な世界を作りたかった。意地だったのかも。ベストテン、チャートを意識した曲作りとかどうしてもタイアップだったり、制約があった。アニメって自由だった。
どうしても思い出す
Fujicolor CM Seikima-II
こっちじゃ
シブがき隊 NAI・NAI 16
作詞家デビューはドリフのバイのバイのバイ(1976)
8時だョ!全員集合「ドリフのバイのバイのバイ」