長谷川家
先祖
俊方は漁師だったが、白い鹿を射止めたところお地蔵さんに変わった。以来殺生をやめ、出家。 大山寺を開山した金蓮上人は長谷川家の出とされる。=長谷川俊方
700年前に発見され、守ってきた薬師如来像。玉造温泉の発展のリーダー的な役割「湯之助」という役割。松江藩の湯を管理していた。建物の修理、相談事揉め事の解決も。命じたのは第2代藩主・堀尾忠晴。祖父吉晴は秀吉の側近。本能寺の変の後、天王山を制したのが吉晴と言われている※麒麟がくるOPが流れてたw
保性館
分家し旅館経営に乗り出す。手狭になったため移転。明治30年、高祖父・百三郎が建てる。明治42年湯町駅ができると玉造温泉にも足を運ぶ人が増え、旅館経営が軌道に乗った。曽祖父・國太郎に代替わり。怖い百三郎とは対照的で評判が良かった。宿を守るため婿養子・中島忠夫を迎えた(丸三陶器商会/布志名焼の6代目・澤藤右衛門の紹介)
祖父忠夫(旧姓中島)は中学卒業後、寺に奉公。陶芸がしたいと丸三陶器商会で絵付け師の修行を始める。大正七年、婿入り。器の選定から盛付まで料理の献立を考える。宍道湖の白魚メニューを売りにする。昭和6年、幽泉閣(現在の幽泉亭)完成。 第二次世界大戦中、保性館だけは出雲大社に参拝する人の為の旅館として経営を続けた。昭和22年、昭和天皇宿泊。
父・尭(たかし)
坂東玉三郎との交流
五男。平成31年、81歳で死去。武蔵野美術大学名誉教授(建築史) 松江高校(現・松江北高校)進学するも、授業料を映画鑑賞につぎ込む。早稲田大学第一文学部へ進学。美術史専攻。卒論「近代建築の空間性」卒業後は定職に就かず、雑誌編集の手伝いなどをしながら執筆活動。
生活費を稼ぐため、歌舞伎の評論も手がけた際、坂東玉三郎との対談をきっかけに交流が始まる
雑誌の対談で、歌舞伎の話になりまして。いろいろと「古典的なことを大事にしなさい」そういうことを教えていただいたのがきっかけで親しくさせていただきました。
神殿か獄舎か
丹下健三批判。
母・恵子
叔父・庄次郎は国鉄に。終戦後復職・結婚したが、映画スターを夢見て家族を置いて上京。劇団文化座に。丹波哲郎も在籍。母に反対され連れ戻される。 武蔵野美術大学油絵科へ進学。3年の時に講師でやってきた尭と出会う。卒業して2年後に結婚。
博己も大学時代に編集のバイト。原稿取りに行ってたのがリリー・フランキー。 「不気味な仕事場だったんですけど、長谷川くんだけポスターに興味持ってたんですよ」