父方は佐伯から別府市へ
小谷姓→鶴田(霍田)姓
ホテルニューツルタ(鶴田旅館)
※うわ何回も通ったり行ったりしたのに初めて知ったわい.。
4代前の高祖父・兵吉は別府で網元。長男は道造。佐伯藩のごたごたがあって別府に逃げてきた。本名は小谷。鶴田(靏田/雨かんむり)に名を変えた。別府の小谷は鶴田とは関係なし。大分県人名録によれば道造は北郡四浦村(四浦半島)道造と満吉が建てた墓に小谷兵部守(実名:大谷得蔵)半島の警護のような仕事をしていた。見つかってはいけないものを見つけたために(何かは不明)明治3年、45歳の時に毒殺。兵吉は息子・道造を連れ別府へ。
得蔵は兵吉の1歳下。兄弟だったと考えられる。道造は地方議員としても活躍した。
二條泉は鶴田家の持っていた温泉。福利厚生施設。道造の息子勘一(真由の祖父)妻(祖母)栄子が切り盛り。洋風の設え。内装は鶴をモチーフに。
母方の先祖は新撰組
森陳明(もりつらあき)
5代前は桑名藩士・森陳明(通称は弥一左衛門)。京都と桑名を往復し、藩の外交にたずさわる仕事をしていた。若い頃、漢文の句を詠む句読師をしており、教養のある人だったのでは。
松平定敬の側近。仙台から新撰組に関わり、常吉を名乗る。近藤勇や土方歳三とも交流があった。蝦夷に上陸し、負傷者として名が挙がる。明治2年、戊辰戦争が終わり、反逆者として捕らえられた。
薩摩藩や長州藩と戦争はしたかもしれないけれども、天皇や公家に逆らって戦ったわけではない。そういう気持ちを隠して詠んだのではないか。新選組藩士和歌集。処遇を待つあいだに詠んだ句。
仰ぎ見む 常盤の山の 松ひと木 はなや紅葉に あらそわぬいろ
明治2年、享年44。切腹を許された。
森常吉 - Wikipedia