阿川家
谷川俊太郎
父・弘之を語る
弘之が下宿生活を始めた当時、足繁く通ったのが哲学者・谷川哲三の自宅。長男が俊太郎。
私の母にとにかく甘え放題だったという子供の頃の印象ですね。うちには結構訪問する客が多かったんですよね。父のところへ。でも酔っ払って母の膝枕で寝たのは阿川さんだけなんですよ。やっぱり人柄なんじゃないかな。阿川さんは潜在意識がすごい綺麗な人なんですよ。つまり意識下にみんな恨みつらみなんかを溜め込むでしょ。そういうのが一切ないという感じがしますね。本当に正直に人と接することができる人。
海軍に志願した理由は陸軍のアンチテーゼ。あまりに超国家主義的で融通が利かないから。特務班。とはいえ多くの友人を失う。終戦後広島に戻ると家族は知り合いの家に身を寄せていた。
増田家
母方
徳川秀忠の時代に掃除ノ者。(←江戸城内の御殿や庭を掃除する係)
祖父・清は精華小学校、芦池小学校、生魂小学校(今田耕司は卒業生)などの建設に関わった。
母・みよの自宅近くで2.26事件が起き、姉・とよと一緒に親戚宅へ避難。
※みよさんの同級生が90代でお元気な方ばかりなのに驚いた
癇癪持ちの夫と何故結婚したかについては「だってわかんなかったんだもん。付き合ってる頃は笑ってばっかりだった。結婚してからは怒ってばかりの人になった。わかんなかったのよ」
佐和子が生まれて鷺宮団地に引っ越す。その時遊んだ友人の父は阪田寛夫
佐和子の弟・知之さん:父がいきなりセーターを脱いだ時に、その手がボーンと母の頭にあたって、母が倒れたんですよ。その時の第一声の父の言葉が「お前はなぜそこに立ってるんだ。だから倒れたんだ」といった時には私はびっくりしましたよね。こんなの許されるのかなと思いましたけど。父は旧仮名遣いとかを使って書いてました。それを読めるのは母だけ。原稿用紙に母が全部書き直すんです。だって読めないんですもん、出版者の方が。もう父の人生、母なしではありえない。そんことを母がわかって「あの人ワタシなしでは生きていけないのよね」それは愛情かもしれませんけれどもね、ある意味でね。母が上回っていたかもしれまでん。
倉本聰
「あひるの学校」脚本
昭和43年。
先生はまだ40代だったと思うんですよね。だからお元気でしたしいいお兄さんという感じ。僕からすると。夏になると軽井沢に別荘があるんだけども、そっちへ一家で行っちゃうとあそこの家に留守番ではいるんですよ。書斎借りて、僕は僕の仕事したり。居候的な書生でしたね。/戦争というものはあの人の青春だったわけですよ。その頃の若者の中の情の揺れ動きかたっていうのかな、そういうのを書きたかったんじゃないかな。全否定されちゃったんですね、戦後ね。本気で(戦争に)行ったのに、行った若者たちというのはその自分の人生を否定されちゃったわけですよ。ものすごく戦後整理しちゃったわけですね。きれいに右か左かでね、先生なんかはそこからはみ出しちゃった。孤立してからね、山本五十六とか井上成美とか、あそこらへんのものを書いてらっしゃる。僕は、それはかなり確たる信念のもとにそこを貫こうとされたんじゃないかと思う
なつかし
朝のホットラインの映像、一瞬「小円遊」と空耳←正確にはコレイユ。フランスの地名
'88-91 阿川佐和子&檀ふみCM集
「違いのわかる男 阿川弘之」篇
阿川 佐和子 32歳
相手に一旦合わせるということを学んだ