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サワコの朝 尾上菊之助 襲名の重圧と葛藤、玉三郎との共演/ 和田誠さんによせて

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記憶の中できらめく曲

Mr.ChildrenさんのTOMORROW NEVER KNOWS

確か1994年ぐらいの曲なんですよ。だいたい高校3年生ぐらい。私が菊之助を襲名したのが96年。
94年ぐらいから「菊之助を襲名しないか?」という声が出てきて。この時には祖父があまり具合が良くなかった。そういうこともあって襲名を早くして、祖父と父と私とで、三代で舞台をやれないかというのが祖父の願いだったみたいなんですよ。ですけど襲名するとなると大きな役がありますし、重さが変わってくる。という壁に当たった時に、学生上がりでいきなり菊之助を襲名させていただくっていうのは追いつかないので、少し襲名を延ばしていただけないかとお願いしたんです。95年にも祖父が具合が悪くなって、3月に亡くなってしまうんですね。学生時代とはいえ、祖父の期待に応えておけばよかったかなとか、自分の実力がそこまで待ってくれといった自分は本当に正しかったのかとか。ちょっと葛藤があって。実際の襲名は96年。そんな時に「明日なんてわからないけれども、とにかく前に進んでいこう」背中を押してもらった記憶があるんです。この曲で。
何かこう、怖かったんでしょうね。ただ、今襲名披露の映像を見ても、果たして1年間稽古したことが身になっているかぐらいの質の舞台だったんですけどね。お前もっとできていいだろって。すごい不甲斐なかったですし、すごい今でもバネになってます。すごい悔しかったですね

京鹿子娘二人道成寺

坂東玉三郎

阿川 となりで同じ舞をずっとやっていくときの緊張、それは
菊之助 緊張しましたね。稽古の時に知恵熱出しました私(笑)すっごい高熱出して。あれっと思ったら風邪でもなくて。なんか知恵熱(笑)それぐらい緊張しました、初めての稽古の時は。師匠が隣に踊っていて、それについていかなきゃいけない気持ちと、お兄さんが「好きなように踊りなさい、あたしが合わせるから」って言っていただいて。のびのびしよう、のびのびしようと思うんだけども、のびのびするスキルもないですし

阿川 女形と立役、これはご自分がやりたいというものなんですか
菊之助 うちによって決まってるんですけども、遡っていくと、初代というものがどういう芸をやっていたかになっていく。そもそも菊五郎家は、最初女形をやっていて、だんだん立役に変わっていって大成したので。だいたい両方やるってことを勉強するんですよね

阿川 最初に言われたときは覚悟するんですか。「ぎぇっ」て気持ちはないもんですか
菊之助 うーん...なんで女形をやるのかという抵抗はありましたね。歌舞伎のお芝居では武家社会とか男社会を描くことが多いので、立役が主役で女性は支える役なんですけども、女形玉三郎兄さんに教えていただくことになって、全体を把握して動かしていく力は女形の力がかなり大きい。衣装、化粧の仕方ひとつにしてもそうですし、懇切丁寧に教えていただいたおかげで やっと女形の道を楽しめるというのは変ですけど、おもしろくなるプロセスを教えていただいた。

35歳で吉右衛門の四女と結婚。5歳下の幼なじみ。この人いいかなと。吉右衛門さんに「娘さんをください」...椅子から落ちそうになってましたけど。実家も「フランス人が来るよりびっくりしました」(笑)

いま心に響く曲は 久石譲風の谷のナウシカ」オープニングテーマ。ジブリでは一番思い入れのある曲。ジブリを歌舞伎にできないかと。鈴木さんにお話に行ったら「ナウシカという名前を変えなければいいよ」

なんとなく思い出した。84年。ご一家のCM


34年前の寺島しのぶ (弟)5代目尾上菊之助 (母)富司純子 (父)七代目尾上菊五郎 The study of Japanese TV commercial history: Fair Use

和田誠さんによせて

番組のタイトルデザインでもおなじみの和田誠さんが2019.10.7に83歳で亡くなった。84年といえば映画「麻雀放浪記」4年後、88年の「快盗ルビイ」も観た。亡くなった父と同じ昭和11年生まれ。父は40代で禁煙するまでハイライト大好きだった。パッケージデザインや「きまぐれロボット」「冷蔵庫より愛をこめて」、週刊文春の表紙も(←今は読んでない)...生活の一部に和田誠さんがいた。
なんとなく弔問客に料理をふるまうレミさんを想像してしまう。亡くなるまで一切公表せずに、ニンニクぶった切ったりブロッコリーおっ立てたりしてたんだな。すごい。もうね、「私の料理を美味しい、美味しいって食べてくれて...」コメントがね、なんか泣きそう。

たとえばフォーエバー、作詞作曲は和田誠。主題歌「快盗ルビイ」の作詞作曲は大瀧詠一

怪盗ルビィ -たとえばフォーエバー

ねこふんじゃった。天地総子さんも亡くなったなあ。66年

ねこふんじゃった Neko Funjyatta Original

64年 Murder

Murder (1964)

追記 2019.12.20

徹子の部屋 追悼特集より
徹子 和田さんは私の舞台のポスターとかチラシ、本の装丁、ほとんどを手がけてくださいました。素晴らしい方でした
88年放送分
徹子 奥様の和田レミさんには前に出ていただいたんですけども。で、レミちゃんは今でもあなたのことを和田さんと呼んでる?
和田 うーん、そうね。人がいるときには。うちでは「お父さん」
徹子 息子さんもずいぶん大きくなったでしょ
和田 うん、そう
徹子 8つの唱ちゃんは、わたしのこと
和田 名前つけたね
徹子 私がテレビに出ると「レロレロ」
和田 あんないいあだな、私ないと思ったわ

94年
徹子 Peopleという、いろんな方の
和田 作ってから10年、20年以上経つんですけどね。
徹子 その方にお会いになるチャンスがあって、この本持っていくわけ?
和田 いつも持っていくわけじゃないんだけどね、たまたまディートリッヒはコンサートやりましたんでね、日本で。すごく嫌がってね、この絵を。吐き捨てるように書いた
徹子 That is Not Me!って書いてあります。これは私じゃない。だけどもディートリッヒってサインは書いてる
和田 付箋挟んできたんだけども、カトリーヌ・ドヌーヴ
徹子 すごーい、イブ・モンタン。今はもう亡くなってしまった方も多いですが
和田 ドヌーヴさん気に入ってくれて
徹子 雨だれがいっぱいついてて。ホントに面白いわね
和田 そもそも僕に似顔絵を教えてくれた、僕が勝手に影響を受けたんですけども、朝日新聞の挿絵を描いてらした清水崑さんの影響を受けて、似顔絵を描きたいと思ったんですね、小学校の時。それからずっと先生の顔を描いたりしてたんだけど、中学の時に清水崑さんのエッセイを初めて読んだの。そしたらエッセイ集の単行本のあとがきに、清水崑さんが中学時代に描いた似顔絵の時間割が出てたんです。俺も真似をしたいと思ったのがきっかけ。
勉強のできないダメな生徒だったんだけど、これは得意でね。人気者になったんです