感想
相川七瀬が3人の子の母、中村あゆみにも20歳の娘がいるとは。月日が経つのは早いもの。約20年ぶりに懐かしい人に会うような感覚。中村あゆみのライブは3回行った。アルバムも12インチも実家にある。昔FMでゲストだった時にはもっとハスキーな声で、ちょっと何言ってるかわかんなかった
ふたりの好きな歌手は山口百恵。知らんかった。
※前日出演の美輪明宏、9/12現在では会話もでき大丈夫とのこと 。
カバー曲を歌うことへのこだわり
中村 ご本人を超えるのはなかなか難しいので、違うパワーを引き寄せて前に出すということ。例えば山口百恵さん、偉大すぎて。なので、そうじゃないもので作品を二人ですごく大事にしてたところはありますね
相川 カバー曲は歌い手に徹することができるっていうか。自分が歌が好きだった、原点の女の子に戻れるので、カバー曲をするのがすごい好きなんですけど。自分の作品だとどうしてもそこにいろんな思いがワーッと入ってきて、クリエイターの自分がそこにいる。カバー曲は純粋に歌い手の自分がそこにいる。
中村あゆみ
ロックシンガーを目指してたわけじゃない
自分でなにか打ち出せるものが欲しかったんですけど、声がこんな感じだったので、。音楽の点数が非常に悪くて、10段階の2(笑)歌をみんなの前で歌うなんてほとんど学生時代なくて。音楽は好きだけど、いつもトライアングル。歌、っていうより女優さんとかそういう仕事ができたらと。
実は福岡から逃げたのは「女優になります」クセの強い女優さんが好きだったので。生みの母親と平尾昌晃さんがお友達で、その縁があって歌手の方に
ー福岡のティナ・ターナーと言われた
300m先でもはっきり誰かわかるくらい(笑)結構問題。声は生まれつき。ぴたっとしなきゃいけないところが隙間だらけ。
翼の折れたエンジェルがヒットした当時、相川七瀬は小学生。合唱コンクールの課題曲だった。「みんなあゆみさんみたいなジーンズを履いてましたもん。薄いブルーの」
※高校生の時に流れてた。85年
日清カップヌードルCM 80年代
(ヒットしたら)一瞬にして街を歩けなくなった。海とか。生活が変わってしまったのを覚えてますね。
もともとアイドルの事務所さんから声がかかったんですね。でも「ウチではできない」って言われたんですよ。あたしの感じを見て「知り合いが居るから行かせる」忘れた頃にアパートに(連絡先の)貼り紙がしてあって。個人情報なんかその時代ない(笑)思い切り電話番号書いてあって。今のマネージャーです。35年以上の付き合い。そのお兄さんが、加山雄三さんの事務所のマネージャーやられてたので、自動的に加山雄三さんの事務所にお世話になった
相川七瀬
プロデューサーの戦略もあったと思うんですけど、ボーイッシュな女の子のイメージを作ってきてて、服とかもオーバーサイズ、男の子が着るような、ワイドサイズの革ジャンとか革パン。いつになったら私は可愛い服を着せてもらえるんだ(笑)奇抜な格好をいっぱいしてきた。よく耐え忍んだな(笑)
オーディション、友達が風邪をひいて来なかったんです。一緒に出しといてあげるって言われて、履歴書と写真を一緒にあずけたんですよ。そしたらまさかの入れ替わってたんです。織田哲郎さんが審査員でいらして、私が歌おうとしたら「ねえねえ君、これ君の写真じゃないよね?」写真が入れ替わってた。織田さんも強烈に私を覚えてた。結局そのオーディションは落ちたんですけど、1年半、2年経って連絡が来た。
- 審査員席を眉間にシワ寄せて睨んでた印象
100%、200%の笑顔でそこに立ってたんですけど「すごいガンをたれてる子供だった」と言われて(笑)
中学3年間をオーディションに費やして、進学したらぴたっと忘れますと親と約束してた。忘れて学生生活してたら織田哲郎さんから声をかけてくださったんですけど、気持ちの整理がつかなくて一度断った。別れ際に織田さんが「気が変わったら電話ください」家の電話番号教えてくれた。1年たってかけたらそこから始まった。そこからデビューまで3~4年ありましたね。レッスンとか、自分で詞を書く練習とか。「恋心」17歳ぐらいの時に書いても書いてもOKが出なくって、4年ぐらい温めて。21歳で出した。
昔書いた詞って大人っぽい。そんな経験ないくせに。
※結婚するとき流れてた銀座ジュエリーマキ。なんだか金かけてそうな感じ。96年
CM (相川七瀬 - 恋心) 銀座じゅわいよくちゅーるマキ