次々起きる災害をどう思えばいいか悩む
2018.8.25掲載
東日本大震災で茨城県も随分被害を受けました。水道復旧に時間が掛かり、ブルーシートや食料品の確保に苦労しました。ただ、被災3県には含まれておらず、取り上げられることはあまりありません。震災後も九州で地震がありました。最近も大阪で大きな地震がありました。しかしそのたびに、私たちの方が大変だったのにとか、私たちではないのにいろいろ支援物資が届いて楽だろうな、などと比べてしまいます。あの大震災があったからこそ、その後起きる災害では、物質配布など迅速にできていると理解しています。ただ被災地の方々に心から頑張ってとは思えないのです....
西日本豪雨も熊本地震も
忘れないで欲しい。うちは西日本豪雨に近い地域なので余計。水害による病院や介護施設の被害、近年増えてて復旧もままならんまま閉鎖になった施設もあるのに。そもそも「私(たち)のほうが大変だった」比較基準はどこからくるのか。何を根拠に。別に頑張ってなんて思ってもらわなくて結構なんだけど。
「負けないで」は好きだが、24時間テレビのゴール前に皆が歌い始めるとなぜか怖くなってしまう。
いま(2018.8.27)あさイチの豪雨被災地の特集見つつ、あらためて記事を読み返す。ちょっともやもやする。支援物資、水筒ひとつとっても「それぐらい買え」ってつぶやいてる人もいたり。ただスタッフもメッセージの選び方が下手なんわざとなん。
ぽちゃお「自分でどうにかできるようになるまでは支援物資に頼っていい」いいこと言うやん #あさイチ
— あみーご長嶋 (@amigonag) 2018年8月26日
#あさイチ TV番組だからね。「はい次の話題で」ってことになるのですがね。それでも辛い特集の時には、この切り替えに付いていけない時がある。今もそう。私は、「はい次の話題で」と一瞬で切り替えられない。多くの人は切り替えられるの?
— Tonae (@Tonaettonae) 2018年8月27日
鷲田清一さんの回答(抜粋)
悲しみの大小など比較できない
被災の体験、とりわけ喪失の経験に大小はありません。家族や友を失う、家を失う、職を失う、大切にしていた人形を失う、野球のバットを失う.....。どれもこれもそれぞれに「宝」を、あるいは頼みとするものをそれぞれ失ったのです。悲しみの大小など比較できません。
自分たち被災者の苦しみが他地方の人たちに知ってもらえているかにこだわりますが、逆の立場からすればどうでしょう。あなたはたとえばこの夏に被災した人びとのことをどれほど知っていますか。「ほんとうに」過酷な災害を受けているのがどの地域か、わかりますか。あなたもまた今、被災地の人たちと同じ目で見られているのかもしれません手術前後の痛みや苦しみも時とともに記憶が薄らいでゆくように、被災の体験とその苦労もいずれも記憶から外れてゆきます。残るのはメディアの言葉だけになる。これは仕方のないことです。たとえわずかであれ、被災を気に知り合った人達とこれからもつながりを持ち続けられるかどうかが大事。
つながりについて少し考えてみたい。