別館.net.amigo

人生案内メモ、文字起こし、感想。

当ブログではアフィリエイト広告を利用しています

【感想】ファミリーヒストリー くるり 岸田繁 

当ブログではアフィリエイト広告を利用しています

Remember Me

エンディングテーマ

歌を歌うときに、ご自身のご家族のことを考えながら歌ってください」と、なかなか言われない注文を頂いて。ロックバンドやってるもんですから、えぇ~っ!と思って。でもそれを意識して、というか。すごい考えながら書きましたね。おじいちゃんとか、早く死んじゃったんで。今もし会えるなら聞きたい事が


くるり - Remember me

岸田家

江戸時代から仏具屋を営む。後継がいないため、曽祖父の藤次郎が養子に。ところが仏具屋を継がず、東京・風月堂でパン屋の修行。パンを焼き、レストランや劇場に売っていた。借家をたくさん持つ。大正三年、祖父・藤一誕生。

パン屋さんで窯があったっちゅうのは、なかなかこうね...最近奥田民生さんと別バンド「サンフジンズ」作ったんですけど
なんでそんな曲作ったんかわからんけど「パン屋さん」いう曲があるんですね。なんか呼ばれるもんがあったんでしょうね。自分で言うてもしゃあないけど。

曽祖父は70歳で死去。藤一は百貨店勤務の重子と知り合い、結婚。出征の3ヶ月後、明夫(繁の父)誕生。藤一は戦地で気象観測手。南方の島を転々とし、最後はケイ諸島・ラングール飛行場にたどり着く。

あるとき敵機に狙われ、九死に一生を得るが左胸に傷が残る。終戦後は捕虜としての生活。マラリアに罹患。昭和21年6月、帰国。藤一は幼い息子たちに「学校を卒業したら、外へ出ろ。日本にいたらあかん」と言い続けた。欧米は凄い、と何回も言っていた。

私も父に「外国へ行け」と言われていた。家族の信念じゃないですけど、脈々と。オヤジが思いつきで言ってることじゃないんだな、と。今の話見さしていただいて思いましたね。あの島に行きたくなりましたね。

母方・一ノ瀬家

昭和15年結婚

繁の母・真知子さん
母の額におできができて、父が「こんなもん作って」ってパーンと叩いたら、みるみる顔全体が腫れてしまって。このまま死ぬん違うかって思ったらしい。母の兄が蛭(ひる)を捕まえてきてそのヒルが血を吸って助かった、ってお話を・・

上海に5年間在住

上海法人帰国先名簿(昭和21年)より浙江里(せっこうり)に祖父母が暮らしていたことが判明。

上海の記憶

小菊さん(95)長男・肇さんの妻
正二 弟の嫁さんです。家の面影はありますわ。思い出しました。黄包車(人力車)、中国人のあれに乗って買い物行ったんですもんね。言葉わからんのに。一ノ瀬も私で終わりです。あともうおらんから。私で終い。これ(家の画像)見たらちょっとでも元気出ます・・ありがとうございました

西宮へ

昭和23年、繁の母真知子さん誕生

真知子さん:私がお腹にいるときに、父が「おろしてきなさい」って。多分大変な時代だったし、いらないって持ったんだろうけど実際産婦人科に行ったら、先生に怒られて帰ってきて生まれたのが私。母が「あんた私の子に生まれてよかったと思う?」って言うから「えっ?」と思って即答できなくて。「お母ちゃんはどうなの?あたし産んでよかったん?」て訊きましたね。・・なんであんなこと聞かはったのかなってことと亡くなる時に救急で運ばれて、その時にずーっと「ありがとうありがとう」ばっかし言ってましたね。「しんどいからもうええよ、眠ったらええよ」言ったけどずっとありがとうって言ってましたね。

一瞬の連続で人の命が生まれて 終(つい)えて、その一瞬のあいだに違うもんが生まれて

父と母の馴れ初め
真知子さん 父の上司の紹介だったが最初は何も話さず別れて、次神戸で会うときは「いやだった。なんで神戸まで行かなアカンの」

昭和50年、繁誕生

4ヶ月ぐらいの時に流産の危険があった。

お七夜は生後7日目。生まれるときに、パパの頭に浮かんでいたのは「繁」です。ママやおばあちゃんは、字画がどうの字数がどうのと気にしていましたが、お前がお前自身で作り出す一生は、そんなもんに左右されるものではないと思う。ママは、お前が微笑んでいると気づいたのもこの日でした

姓名判断を気にしなかったんだ、お父さん。

関連


こちらも