宮沢章夫「僕にとっての活動期は80年代」
THE POLICE
中学の頃、理科の教師が勧めていた。元素記号がおぼえられないとすぐキレるバレー部の顧問。「ポリスの”高校教師”が好きなんだワタシはぁ!」の一言で、2だった理科が4にまで上がった。洋楽万歳。
The Police - Don't Stand So Close To Me - YouTube
訳詞は確かに教師と生徒の関係です。邦題グッジョブ。教師ナイスデスネ。父と同年代とは思えない。
年間アルバムチャート
YMO
コンピューターは何を変えた?
細野:ベースを弾いてて、有機的な、オーガニックなリズムでやってたわけですね。70年代ってそういう時代。急に、コンピューターで、ベースは数字で打ってくるようになるんです。じゃぁ、自分は一体何をすればいいの。一度ベーシストとしてのアイデンティが崩壊した(中略)脳で音楽ができるんじゃないかって刺激が、とてもあった。クラフトワークのことは「鋼鉄のコンセプト」と呼んでた。バックボーンがあるわけで。
高橋:コンピューターとセッションするって新鮮に思えて。苦でもなんでもなくて。クリックに(電気信号によるメトロノーム)合わせるってことが、機械とやってるのとあまり変わらないんですけど、生身の人間ですからグルーヴ感がまた違った。
YMO - 1000 Knives (Budokan 1980) - YouTube
RYO-Z:基本的に僕らの音楽は、打ち込みから始まってる。「楽器覚えよう」からじゃない。レコードから音をちょっと借りて、ループして、YMOのテクノロジーがなければ、僕らもやれてない。
宮沢:聞く側も変わった。ウォークマンの革命ってあるじゃないですか。これを持って外へ出ていく新しさ。
風間:音楽って本来手元に置けないもの。自分のものになる感覚ってあるんですかね。
RYO-Z:それを可能にしたのがカセットテープじゃないですかね。
風間:爆発的に街中でも聞けるようにしたのがウォークマン。
ソニー ウォークマンD.D.CM 80年代 - YouTube
マイコン
宮沢:80年代の「暑苦しさ、汗に対する否定感」が「希薄化する身体」
※テクノポップのひとつの定義。
YMOのコンセプト
軽薄、ビョーキ
細野:軽薄さが「キュート」なんだと。卑下したいワケじゃなくって、東京のウリなんだと。
高橋:「東京は病気なんだ」というプロモーションを世界でやっちゃおうと。工業用マスクをして「これがないと東京は病気になるんです」ウソばっかりやってましたね。「東京は病気の街」あえてそういうことをやろうと。ただの皮肉。日本を外から見たときの。
ビジュアル戦略
高橋:インパクトのあるものを思いついた。ユニフォームの一つの形を取ろうと。みんなこれ「人民服」って言うんですけどスキー服なんですよ↓
良い意味で言えば美しい誤解をしてもらいたい。クールな日本人たちだっていう。「ソリッドステートサバイバー」の隠された意味は「ビョーキから生き残った者」まとめ
宮沢:YMOはコンセプチュアル。資本主義と戯れた。浅田彰(思想家)は「シラケつつ、ノる」と言った。当時26歳。
熱くなるのにはとうに流行遅れ、かといって全てにシラケきったダンディズムを気取るのにも飽き果てたこの時代にあって、他にどんな方法があるだろうか。(「構造と力」より)
「Firecracker」はMARTIN DENNY「QUIET VILLAGE」(1959)のカバー。
"Quiet Village" by Martin DENNY - YouTube
「なんとなくクリスタル」は274個の注釈がつきまくり、読んでも読んでも厨2病には意味不明だった。DCブランドは妹が好んで着ていた。ほぼカラスだったし、彼女は街中で「神を信じますか?」「除霊させてください」の方々に声をかけられまくって困っていた。アイビーやハマトラが「蛸壺」と表現されるとは思わなんだよ。
絶滅危惧種
竹の子族
風間俊介が生まれた頃に「おしん」が流行った。今でも、自分にとってはテレビハラスメントだと思う。
http://ami-go45.hatenablog.com/entry/2013/03/26/161740
吉本隆明をめぐるコムデギャルソン論争からゲルニカまで広範囲に取り上げた。全編再放送希望。
復興ノ唄 ゲルニカ - YouTube