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【Eテレ】【抜粋】カズオ・イシグロ  文学白熱教室 

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どうして小説を書き始めたのか

わたしの生い立ち

ご覧のとおり、見た目は日本人だ。だが、振る舞いは欧米人のようだと思う。
私は九州の長崎に生まれ、いま60歳だが
5歳になるまで長崎で暮らしていた。
もちろん当時は、日本語しか話さなかったし、家も典型的な日本家屋だった。
5歳の時に両親とイギリスへ引っ越した。
15歳になるまで、ずっと日本へ帰るものだと思っていた。
それが両親の予定だったからだ。
永住はしないと思いながら育った。
日本と呼ぶかけがえのない場所が、いつも頭の中にあった。記憶に基づいている。
幼い頃の記憶には、読んだこと聞かされたことが混ざっている。
日本の現実からかけ離れていたのだと思う。
歳を重ねるにつれ、この記憶が薄らいでいくことに気がついた。
日本という世界が薄らいでいくのだ。

当時、小説ではなく、ロックに興味があった。
だが、23~4歳の頃、突然フィクションを書きだした。

頭で思い描く日本を舞台に、フィクションを書いた。
現実の日本をリサーチする気はさらさらなかった。
かけがえのない日本を紙に書き記したかった。
それが小説家になる本当の動機だった。
小説に書く事が、私の世界を、安全に保存する方法だったからだ
社会問題を盛り込んで問題提起することもした。
根底にあるのは「薄らいでいく記憶を保存したい」という思いだった。
小説は、情緒的な日本をとどめることができる。それが出発点だった。
自分の心や頭の中にある内なる世界を、人が訪れることができるような
具体的な世界を外に作る方法だ。そうすれば私は安心できる。
小説というものの中に安全に保存される。

-非常に個人的な世界を、他人にも読めるように書くのは
心配ではありませんでしたか?
それとも、ひとと分かち合いたいと思ったのでしょうか?

いい質問だね。最初の二つの小説は自伝的なものだった。
でも直接的には自伝的なものではなかった。
実際その舞台は、私が生まれる前の日本だった。
第二次世界大戦後の、復興の時期。
個人的な出来事があるとすれば、私よりむしろ両親が体験したことに近い。
最初から自伝的小説を書くことに興味はなく、
自分が覚えている世界を作るのに重点を置いていた。
視覚的に、感覚として覚えている子供の頃の記憶。
路面電車の音や
まるでおもちゃのような、色や食べ物を覚えている。
それを保存しておきたかった。

20代の自分は、今の自分を賞賛するだろう。
今だからわかること、今の書き方と
当時は違う書き方をしている。
今の方が技術的に優れていると思うが
若い作家を、どこか羨ましいと思う。
当時の自分は想像を膨らませるパワーがあった。
初期の作品にはどこか特別な何かがある。
年をとるにつれ、若い作家を羨ましく思う。
若い時を作家として過ごす、その時間をね。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

作品の舞台設定を変えること

私の作品は、特にヨーロッパやアメリカで読まれていた。
私の小説は「特別な日本」だと捉えられる傾向にあった。
社会について何を書いても
日本の社会のことと関連付けられてしまっている。
日本人の考え方、マインドだと受けとられていた。
1980年代は、日本は今ほど世界に知られていなかったので
異国情緒あふれる、不思議な文化の国だと思われていた。
うぬぼれた言い方だが
「ほかの小説家とは違う、独特なスタイル」だと思っていた。
が、人々は「すべて日本のこと」と思っていた。

こういうことになるのは
読者の読み方にも限界があるからだ。

そこではっきりと決断した。
「舞台が日本ではない小説を書こう」
読者に受け入れてもらえるだろうか、反発されるのだろうか。
普遍的なことを書く作家として認知されたかった。

それが3作目「日の名残り

舞台設定は物語の中で重要ではない。
このところ、かなりこれに悩まされている。
舞台設定に長い時間を費やしてしまう。
世界中の様々な場所や時代に移せるし
ジャンルだって怪奇小説推理小説にも変えられる。

心がけていること

イデアを簡潔に、2~3つのセンテンスにまとめる。
もしまとめられないなら、そのアイデアは今ひとつである証拠。
あるいはまだ熟していない。
ノートに書き留めたアイデアを読み返し、短い文章に
発展性や、湧き上がってくる感情があるかどうか確かめる。
短いセンテンスに私を悩ましたり、広がる世界があるのか。
あらすじ以上のものがないとダメなのだ

イデアは、時間や場所が決まっている訳ではない。
3作目の本は、完璧な執事になりたがっている男の話である。
私生活その他の事を投げ出しても、完璧な執事になりたいと願っている。
舞台は日本でも4世紀前の設定でもいいし、未来にしてもいい。
舞台設定を自由にしても良いと知ったら、困ったことになった。
まるで高級レストランに行って
メニューを見て何を選んだらいいか困っているのと同じ状況になったのだ。
ここ10年、舞台をどこに設定すればいいのか決められない。
選択肢がありすぎて、だ。

私はロケハンに時間を費やしすぎる。

2回書き損じた作品「わたしを離さないで」
筆が進まないのは舞台設定が悪いんじゃないか?。
何らかの理由で、若者達が「老人のように命に限りがある」
設定の物語が書きたかった。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

作家が負う責任

小説を書くときは、物語の層がいくつもあることを
認識して書く必要がある。
付随する問題に対し真摯にあたる。小説の仕掛けとして使うのだから。
心の奥底には罪悪感がある。

フィクションにできること

異なる世界を創りだす。これが、小説に価値のある理由のひとつ。
実生活で生まれる多くのことは、想像から生まれたもの。
心のどこかに、異なる世界に行ってみたいという願望がある。
異なる世界を必要とし、行きたいという強い欲求がある。
自分が知ってる現実とは異なってもいい。
こんな効果的なことができるのはフィクションだけ。
ノンフィクションやルポルタージュでは生み出せない。

記憶を通じて語る

読者も、読まないと体験できない。他の形では得られない。
筋書きに固執して、時系列に話を展開するより
語り手の内なる考えや関係性を追って書き出した。
フィクションは「信頼できないこと」で面白いことが起きる。
人間の記憶は歪められている。
不愉快なことはすり替えられている。自分を誇張したり。
フィクションで「記憶」を取り入れることにより
「なぜ人は信頼できないのだろう?」と思う。
隠そうとする理由、逃げたいと思う理由、小説というのは非常に力強いツール。
人は真剣な話や需要な話をするとき
じつは信頼できないのだ。大人になればなおさら。
方便。社会で生きてるだけで物事を読み取る達人にもなってる。
読者は「読み取るスキル」を使っている。

最新作

ドラゴンのせいなのね「忘れられた巨人
かけがえのない記憶を消すために、龍をどうするか。
記憶を忘れられたままにするのか、取り戻すのか。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

The Buried Giant: A novel (Vintage International)

The Buried Giant: A novel (Vintage International)