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【感想】NHK 敗れざる君たちへ 阿久悠 重松清 甲子園の詩を巡る旅。

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幕は上がった
今年の夏はまともに勝負を挑んできた。
最大の賛辞を日光の照射に込めて・・・ 

毎年思うんですが開会式の長さは何とかなりませんか。
特に今年の文科省の偉いひとの挨拶は酷かった。
球児の行進と始球式だけで十分だ。
30年前と今とは暑さが違うのは誰もが体感してる。

現在高校球児の坊主と一緒に見た。
宇部商、藤田修平のサヨナラボーク。
引き出しの奥から重い記憶が引っ張り出されて胸が痛くなった。
坊主は中学生のころyoutubeで観て泣いたそうな。

豊田大谷vs宇部商 サヨナラボーク - YouTube
この年の捕手は上本サン(現西武)かな。
藤田さんちの坊やが甲子園観に行った時、ライオンズの帽子をかぶってたっけ。
中学、黒石だったんだ。
お父さん若いな。55才か。

甲子園だけじゃなく、グランドには魔物がいると、昔昔からずっと言われてきた。
なぜか本人にもわからない(と思う)が、してしまうのだ。
誰も好きでパスボールやエラーやボークをするわけじゃない。

藤田サンは現在彦島製錬に勤める。
大学で肩を壊しても、会社でスコアラーをやったりして野球に携わっていたが、辞めた。

背後から見ると、痛々しいほどに少年でした。
二百十球も投げたのですから、心打たれて当然です。
幕切れは、熱闘のフィナーレにしてはあっけないものでした。
君の表情が忘れられません。1998年夏を終わらせる君の哀しい表情。
藤田修平君、また来年あいましょう。

 ノーアウト満塁で、どんなことを考えてた?
「抑えられるという気持ちでした。打線も下位だったと思うんですが
投げていてどこが弱いとか、だんだんわかってくる。」
ボークの瞬間、覚えてる?

「なにがなんだかわからなかった。」
確認したらどうだった?
「100%、ボークでした。」

僕がすごく印象に残ったのは「また来年あいましょう」
次の夏は叶わなかった。

やっぱり野球が何よりも大好きで、笑った顔は
まだ17歳だったあの日、マウンドで見せた面影に重なり合うのです
(中略)ストレートを投げるつもりだったそうです。
必ず打ちとれる自信もあったし
藤田さんは今もほんの少し、悔しそうでした
でも藤田さんは、約束もしてくれました。いつか子どもたちに、
あの日の悔しさを話したい
「お父さんは精いっぱいやったから、悔いはないんだ」
阿久さん、藤田さんは今、歌に出てくる「やせ我慢で時代遅れの男たち」に
ちょっと似てきました。(重松清

追記:2015.5.19 後日談
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150519-00000019-dal-baseheadlines.yahoo.co.jp

阿久さんは松井秀喜をあなたはスケールが違う。
まるでこの日の不運が最大の幸運であったかのように変えてしまう」と表現した。
巨人時代「ストレスや肩こりを感じたことがない」って言ってた記憶がある。
5打席連続敬遠の日、自宅に帰ってから飼い猫(ナナちゃんだっけ)を撫でながら
「(一塁に)歩いただけでこんなに騒がれるんだ」と言ったとか。

●1988年夏 高田対滝川二
56年ぶりの土砂降りコールドゲーム

ただひたすら 自らとの戦いを強いる激しい雨
初陣の高田高校。夢にまでみた甲子園は
ユニホームを重くする雨 足に絡みつく泥 しろく煙るスコアボード・・・
多くのものをしみこませて終わった。
高田高の諸君、君たちには甲子園には1イニングの貸しがある
そして青空と太陽の貸しもある

高田高校は震災で23人の死者、行方不明を出しながら、
詞が刻まれた石碑は残っていた。
当時副キャプテン、2番センターの尾形さんは
コールドゲームが甲子園に存在するとは思っていなかった。
1点返せれば、まだ行ける。
チェンジすることしか頭になかった。
詞には8回までの試合の状況とかが凝縮されてて
なんでこれだけわかるんだろうと思ってた」
「高田高校のことをかわいそうだとか思ってないんだよね。
阿久さんの男のロマン、とかね」(重松清
長男の名前は阿久さんの詞からとって「太陽」

熊谷勉さんはレフトで4番。
現在は工事関係の仕事。
「仕事の現場でもやり残したことが多々あるから、
次へ進む”貸し”になって頑張ろうと思う」
村上さんは1塁ベースコーチだった。
津波で母とおば、6歳の二男を亡くした。
前を向く力を与えてくれたのも野球。長男の所属している野球チームの監督で
大会に出た時は震災を忘れられた、と話す。

夏の大会がかなわなかった高校の大半は、新チームが始動していると思うけど
うちの坊主も背番号をもらってきた。球児としての夏は、あと2回ある。
大事そうに枕元に置いて寝たので、次の新人戦までにゼッケンを縫いつけなくちゃならない。
お前が縫え(^^ゞ
でも、いつ野球ができなくなるか、明日かもしれないし、みたいなことも
心のどっかで考え始めたみたいで。
そりゃあ気持ちとしては誰もが1日でも長く野球をやりたいんだろうけど。

ところで時の流れは速いですね。
ワタシが簑島対星陵戦を見たのは小学生でした。
おっさんたちがやるものだと思っていました。
取手二高とPLの決勝戦でようやく
「同世代が野球やってる」感覚になり
松阪世代は年下のボンボンがやってるようで
いまや気づけば息子の先輩や同級生が高校野球やってんだもの。
84年の取手二高でセカンドやってた佐々木さんは、今や常総学院の監督ですもんね。
年取ったな~